見出し画像

『晩年感覚」大江健三郎、同伴者殺し(1/2)


(数を足すことができるという考えは、
数自体が全く抽象的であり、
物から分離しているのでなければ、
空間の広がりを前提としている。
物と物とがぶつかり合わずにすむような空間の中で、
わたしたちは数を数える。

例えば、
三匹の子豚、四人の小さいインディアン。

そのいずれも、
ほかの誰かと重なり合っていてはまずい。
それぞれが単独で
一つとして成立しておく必要がある。
しかも指し示す数量と
対応させずに物を数えることができない。
わたしたちが数える場合には、
数を量に変換して捉えているのだ。)

では、わたしたちが
自分のことをわたしという一人称で呼ぶとき、
わたしたちの中には
何名がいることになるだろうか、
わたしと呼ぶことで
わたしたちから離れてしまったわたしの中には。

「二個のものがSAME SPACEをOCCUPYする訳にはいかぬ」(夏目漱石)としたら。

わたしという
自己完結したがる心理的空間で、
わたし-あなたは
占拠しあうようになるのだろうか。

わたしは
決して敗れてはならないその戦いで、
あなたを排撃するに至るだろうか。
わたしの中にあなたを容れられないなら、
わたし-あなたのどちらかが
身をひかなければならないはずなのだが。)

孤独がわたしたちの存在様式だ。
村上春樹はその事実に対して、
異なる二つの対応をした。

『1973年のピンボール』では、
孤独に固執し、
固執しつづけることを可能とする
孤独の再体験を行った。

『羊をめぐる冒険』では、
個体の不可侵という条項を
倫理的な相手からの侵入に限って
許可するという姿勢を保った。

侵入する他者と
それに対抗する自己が、
大江健三郎が自ら導き、
受肉している問題だ。

自己とはその音の通り、
他者との接触という事故から
しだいに明瞭な姿形をなしてくる。

そのようにして生成する自己は、
自己の存在様式である
孤独に見合う
自己完結を要求するようになる。

曖昧な結節点の連なりとしての自己も
やはり唯一であることに変わりがない。
どのように解けやすく、
また紡ぎやすいものであろうと、
それを自己と呼ぶ一瞬には
それは運動として停止している。

自己が自分を
確立していると判断しているその時、
つねにそれまで寄り添っていた
同伴者の排除の劇が行われ、
同伴者が埋葬される。

その第一の殺害す現場はどこか。

『芽むしり仔撃ち』には、
埋葬のために掘り返された土が
古びないまま後を残している。

『芽むしり仔撃ち』は、
空襲の激しくなった土地の感化院の少年たちが、
生い茂る森に囲まれた村へと疎開する物語だ。

親元に引き取られていく子供とは裏腹に、
犯罪者でもないのに院に連れてこられてくる弟、
この弟が同伴者殺しの最初の犠牲者となる。

トロッコで谷間を渡って辿り着いた村には疫病が流行り、
村人たちは僕ら子供を置き去りにしてしまう。

これでまず空間的な条件は整った。
子供だけのものとなった村、
村人というあなたがいなくなった村、
ここが僕らと言うSAME SPACEなのだ。

僕らはここで、
疫病に感染する恐怖と引き換えに、
身体大の大きさで活動することの自由を入手する。

行く先々で村人の好奇の目に身を晒してきた子供らが、
ここでは監視されることからも逃亡を妨げることからも解放される。

この自由は、
月の光に背中を濡らすようにして出ていく村人との
文字通りの闇取引だ。

棄てられてあることの自由さに思い至らない
僕らの感情の暗さにふちどられて、
濃さを増した闇の中で得られた自由だ。

『芽むしり仔撃ち』では、
僕の弟は苛立ちやすい仲間たちの間でただ一人
感情発露の管が捩れていない
無垢の少年として描かれている。

しかも、
ぼくは兄として
彼の無力を覆いつくしてやらなければならない立場だ。

村人の先駆者のようにしてまず弟を置き去りにした
父親の代理として振る舞う立場なのだ。

自己という絶対神への供犠の供物として、
これほどふさわしいものはない。

自己の閾域の最も近い地点にあり、
しかも侵入する権利をもっていると
声高に叫ぶ必要もないのだから。

同伴者殺しにも、一応の理由は行われている。
疫病の発生が最も恐れられている状況のもとで、
弟が愚かにも犬を拾って飼い始めたのがその発端だというのだ。

埋葬された病死者を掘り起こしたその牙で、
犬は僕の愛人の少女を噛む。

弟はその犬を撲殺されたことへの悲嘆と、
それを止めなかった僕への憤怒を抱いたまま
ひっそりと姿を消す。

僕はしかたがないと次のように弁解する。

     *

 僕は弟を追いかけて行き、肩を抱きしめてなぐさめてやるべきなのかもしれなかった。それが最もよいよりやり方かもしれなかった。しかし僕は年少の仲間たちをとらえている恐怖、彼らを死にものぐるいへの叫喚へと追いこみそうな恐慌をふせぎとめなければならなかった。

     *

僕は兄としての立場よりも、
集団のリーダーとしての立場を選択した。
加害者は僕なのだ。

それにもかかわらず、
僕の意識の中で、去っていった弟は
僕から離れたことで加害者となり、
僕は優しくしていた弟に去られたことで被害者となっている。

実際の成り行きと僕の意識とは
転倒した配置になっている。

それはなぜか。

同伴者を殺すことでしか、
自分を生かしていくことができない
僕の正当化が行われているからだ。

そのことは、僕の弟と
もう一人の同伴者である少女の消え方に注目してみればわかる。

僕の弟は、
僕から借りていた駱駝の首の形をした栓抜きを
きちんと返却したあとでいなくなっている。

僕は決して現場を目撃したのではない。
弟は、気づくといなくなっていたという形で
僕の意識から葬送されている。
初めての異性の恋人である少女の場合には、
次のような場面で僕の態度が変わる。

     *

 夕暮れに僕は、谷間の柔らかい土と灌木の共同墓地へぼろにくるまれた小さなものを抱えた兵士と、彼から数米離れてついて行く仲間たちを見た。僕は仲間たちの群れへ加わって、兵士が時どき僕らを寄せつけない険しい眼を投げながら、熱心に土を掘り起こし、ぼろでくるんだ塊りを埋めるのを、涙を流しながら見た。

     *

このときの僕のいる位置が問題なのだ。
僕は少女がぼろに包まれた
小さなもの以上に鮮明に見える距離より内には
接近していない。

また、距離感を不鮮明にするような
涙のヴェールまでも貼られている。

恋人に対するこの距離を置いた冷ややかな葬送。

ひとつの心の中に
自分だけがいるようになった安定を入手したのち、
いよいよぼくは村人と対立する資格を得たのだ。

戻ってきた村人は
僕たちに置き去りにしたことと
村を占拠したことの相殺を提案する。

ぼくは今や足手まといの同伴者なしにいることで、
彼らの申し出を拒絶することができる。

僕が僕ひとりの考えに従って行動するためには、
僕に影響を与える要因が除去されていなければならないのだ。

僕は他者の死を身近に呼びよせ、
それは壁とすることで自らの死を寄せつけない。

生きる理由の空虚に、弔いの感情を納める。
そのためにも、ぼくは生きなくてはならないのだと
主張する声も発することができるように僕は自己暗示をかける。

『芽むしり仔撃ち』では弟は自発的に消えていった。

では、自発的に消えない場合にはどうなるのか。
むしろ
同伴者が主導する形で、僕を行動へと誘う場合には。

結果は同じことだ。
僕は弟を殺す。
僕は自分の中にわたししか数えることができないのだから、
排除し続けるほかはない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?