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空っぽの部屋 3

いつか行こうね。そう言いながら実現しなかったことはいくつかあるけれど、コウヘイと約束した「いつか長崎へ行こうね」という約束が果たされないままでいることは、美穂のこれまでの長くはない人生において一番後悔の残る約束になった。

思い出したくもない辛い報せは突然だった。イヤな報せほど、なんでも無い時に突然、寝首をかきにやってくるのはどうしてだろう。

コウヘイは自転車が好きだった。すごく速いロードバイク。何度か誘われたこともあったけれど体力に自信が無かったから、断っていた。その日もいつものように「糸島まで行ってくる」と朝連絡があって、いつものように「かえってきたよ」という連絡が入るのを待っていた。夜になっても連絡が無くて、まあそういう日もあるだろうと、寝る支度をしていたところ、携帯が鳴った。電話口の声は、何度か会ったこともあるコウヘイの母親だった。

そこから先のことは、断片的にしか覚えていない。何が起こっているのか理解もできないうちに、コウヘイの柔らかい頬も、ゴツゴツした手も、ハリのある腿の筋肉も、全部違う分子に変わって、煙突から世界へ広がっていってしまった。つかもうとしても、つかむことはできないんだな。抱きしめようと思っても、体はどこにもないんだな。火葬場のベンチにへたりこんで、美穂はずっとそんなことばかり考えていた。

美穂がはっきりと意識を取り戻したのはそれから2週間後、コウヘイの母に頼まれて一緒にコウヘイの一人暮らしのアパートへ行った時だった。何度も通ったはずの部屋。コタツの位置も、ベッドの乱れ方も、PCデスクも。よく知った風景のはずなのに、初めて来たみたいに感じた。たくさんの物がそのままになっている部屋が、なんだか空っぽで怖かった。死ぬということがわかって、生きるということが急に怖くなってしまった。

冷や汗をかきながら部屋まで戻ったけれど、2週間何も考えなくても普通に仕事ができていたのがウソみたいに、頭だけが冴えわたって、体が全然動かなかった。そのままベッドの上で眠れない夜が2回やってきて、このままじゃいけないと日が昇る頃に母にメールをした。

「助けて。」

どれだけ車を飛ばしてきたんだろう。2時間後にはもう母がアパートについていた。あの日の朝に母がきつく抱きしめてくれていなかったら、きっと死が自分を連れていってしまっただろうと、美穂は思う。行き先は多分、コウヘイとは違うところ。死が望む人と同じところへ連れて行ってくれるなんてことは、きっと無いだろう。そんなこともまだ、時々考える。

仕事を辞めて実家に戻ると知って、レイコはとても悲しんでくれた。母と三人、小さな部屋でボロボロ泣いた。一番暖かくて、一番悲しい涙だった。

鳴海ニュータウンの空っぽの部屋に、主人が帰ってきた。最低限の家具だけ入れて、レイコはそれから3ヶ月、ほとんど眠って過ごした。窓の外のの海は少しずつ悲しみを飲み込んでくれて、半年が過ぎた頃には美穂は普通に体が動くようになった自分に驚いた。

PCを買って、クラウドソーシングでプログラムやコードを書くアルバイトも始めた。窓の外の海のように、穏やかな一年が過ぎて、そろそろ福岡に戻ってもいいかもしれない、そんな折にやってきたのは、また大きな悲しみだった。本当に、イヤな報せは、油断した頃に寝首をかきにやってくる。

「膵臓にガンが見つかった。」

母は海のような瞳で、穏やかな笑顔だった。今度は心の準備をするだけの時間があったのは、神という者がもし存在するのであれば、せめてもの温情だったのかもしれない。

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