ep6 夏の匂いがする家

階段の無いアパートの5階は、上り下りがきつい。ショウタは今日も重い買い物袋を下げて、フゥフゥと息を荒げながら階段を登りきった。完全に物置になっているダイニングテーブルの上に買い物袋をドサッと置いて、アイスとコーラをとりあえず冷蔵庫に放り込む。

冷房をつけっぱなしで出かけてよかった。ショウタは居間にしている和室の座椅子に腰をおろして、扇風機の風を目一杯浴びた。

昼飯に買ってきた冷やし中華を準備している途中で、携帯が鳴った。

「昨日はありがとう。あなたの暮らしが心配です。そろそろまともな仕事についてみてはどうか。まだ30。選り好みしなければいくらでも仕事はあるでしょう。応援しています。」

父からのLINEだ。すっきりし始めていた胸がまたムカムカした。アルバイトをしながら絵を描く今の暮らしを、ショウタはとても気に入っている。バイト代は生活費でほとんど消えていくけれど、貯金だってわずかながらにある。応援していると言いながら、父はいつもそうだ。

男たるもの、こうあるベシ。大人は、こうあるベシ。人として、こうあるベシ。

いくら柔らかい言葉でサンドイッチしたって、ベシ、ベシ、ベシ、ベシ、ベシ、ベシ、ベシ。あなたはムチか。

気の短いところはあるけれど、優しく、強く、小さい頃は大好きな父だった。関係が崩れ始めたのは、専門学校を中退してから。やりたいことも無くて、鬱々と過ごしていた僕を心配してはくれたけれど、優しい言葉と、いかにも見守っていますという我慢する態度が、ベシ、ベシ、ベシ、とショウタを叩く。中退してから半年も経たないうちに家を出てここに落ち着き、それから10年が経った。

ショウタは冷やし中華を怒りにまかせてかきこんで、グラスにコーラと氷、ウイスキーを少し注いで、座椅子にどかっと腰掛けた。タバコに火をつけて、テレビでYouTubeを見ていたら、だんだん気持ちが落ち着いてきた。

夢ばかり見ている年齢じゃない。バイトだって、いつかクビになるかもしれない。若い人に囲まれて、いづらくなるかもしれない。体を壊すかもしれない。結婚も子育ても、したくなっても手遅れかもしれない。

そんなことはわかっている。わかっているに決まっている。「いいや、お前はわかってない。」父のそんな声が聞こえる。うるさい。だまってろ。

怒りをもみ消すように、山盛りの灰皿にタバコを押し付けてショウタは立ち上がった。

ふすまを挟んだ隣の部屋が、寝室兼作業部屋だ。明後日が納期の書きかけのイラストを燃えるように書いた。この代理店からの注文は3回目。単価アップをそろそろ交渉してもいいかもしれない。

ベシ、ベシ、ベシ。今度はショウタがペンタブで父の背中をたたく番だ。チクショウ。バカヤロウ。エンタメだって立派な仕事だ。時代遅れの石頭め。

筆は同時に、逆毛がたったショウタの心をブラッシングもしてくれる。イラストを書き上げて時計を見ると、もう夜の10時を回っていた。

貧乏は不幸、怠惰は恐怖。唾棄すべきモノ。父は幼い頃、女でひとつの貧しい家で育った。本能にしみついている貧乏の不幸から逃げるように、父は真面目に働いてきた。だからショウタは、貧乏の味を知らない。

作業に没頭したおかげで頭が鈍って、ショウタはまた冷静になれた。感謝。ベシの痛みが去った後に残る感覚は、その重たい鎖だ。

少し気分を変えようと、作業部屋と台所の窓を開けた。背後の山から吹き下ろす風が、海へ向かって吹き抜けていく。夏の熱気をいっぱいに溜め込んだ森が、深呼吸している。汗、草、風、タバコのニオイと、放って置いた冷やし中華の汁の匂い。

夏の匂いがする家だ。生活の匂いがする。立派じゃないけど、生きている。夏の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、ショウタは携帯を手にとった。

「心配してくれてありがとう。イラストの仕事も少しずつ軌道に乗ってきています。もう数年、頑張ってみるよ。迷惑かけてごめんね。」

今日の風は涼しい。ショウタは冷房を消して、窓を開けたまま寝ることにした。


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