空っぽの部屋 4
美穂の母は口数の少ない人だった。会話は必要なやり取りがほとんどで、愛しているとか大切だとか、そんな言葉を母から聞いたことは無かった。
二人に残された時間は半年あまり。いくつかの治療を試してはみたけれどそれほど目に見えた効果は無くて、病状はほとんど、最初に医師からの予告があった通りに進んでいった。最初の1ヶ月で、死後に必要な決め事のほとんどは整理することができた。いつもこんな風に、テキパキと段取りのいい母だった。
動けるうちに旅行がしたいということで、二人で温泉にも出かけた。黒川の、山の中の静かな宿。
母な広縁に置かれた椅子に腰掛けて、外の緑を見ていた。美穂は畳の上の座椅子に座って、見るでも無くテレビの映像を眺めていた。
「なんにも、教えてあげられなかったねえ。」
外を見たまま母が言った。
「そんなこと無いよ」
そう言いながら黙って聞いているのが怖くて、美穂はお茶を入れる準備をした。ポットにはお湯が沸いている。茶筒にきちんと茶葉があって、素敵な宿だと美穂は思った。
「ひとつだけね、お願いしたいことがあるの。誰か、一緒に生きる人を見つけて。」
美穂が鳴海ニュータウンに越してきたのは、7歳の頃。きっかけは工場の事故で父が亡くなったことだった。それからは再婚せずにここまで来た。だから美穂はその言葉を意外に思った。
「でもお母さんはすごいよね。一人でここまできたんだから。」
美穂がそう問いかけると、母が姿勢を正すような音が聞こえた。
「ううん、それは違うの。お父さんがいたから、やっぱりここまで来れたんだと思う。10年以上、一緒にいたから。だからコウヘイさんのことは本当に残念だし、どんな人かは私にはわからないけれど、2年くらい?それだと、その後の一生を託すには、短すぎるんじゃないかと思うの。」
うん、ありがとう。胸が詰まって、美穂はそれしか答えることができなかった。
「一緒に生きる人は別に多くなくたっていいの。それから誰でもいいっていうわけじゃないのよ。待つだけじゃだめ。こっちからね、釣り糸を下げておくの。わからない人にはわからないけど、気の合う人だけが食いつく秘密の餌をつけてね。」
母はそう言って笑った。湯呑みを盆に乗せて立ち上がった美穂も、つられて笑った。美穂の母が遺言めいたことを言ったのは、それが最初で最後だった。
それからまた季節がめぐって、母は話すことも、体を起こすこともできなくなった。痩せていく手を握って、美穂は何度もありがとう、ありがとうと心の中で唱え続けて、やがて母の体も、またこの世界のどこかへ、散らばって消えてしまった。そうして今度は母の部屋が、空っぽになった。
釣り糸を下げておくの。
母のその言葉は、美穂にとっての唯一の光明だった。コウヘイも気に入りそうな、素敵な考え方だ。
母の部屋を空いたままにはしておきたくなかったから、美穂はPCを母の部屋に運び込んで、仕事部屋にした。なるべく長い時間をそこで過ごしたかった。自宅で仕事をしながら、空いた時間にロブロックススタジオでゲームを作り始めた。鳴海ニュータウンと、そっくりそのまま同じ姿をした街を舞台にしたゲーム。
時間がかかってしまったけど、ゲームの舞台の準備があらかたそろったある真夜中、美穂は計画を実行に移した。
鳴海ニュータウンのほぼ中央にある殺風景な公園のベンチ。ゲームへアクセスするためのQRコードと、鳴海ニュータウンの緯度と経度をプリントした紙をたたんで、座面の隙間にそっと差し込んだ。
お願いだから、誰か気づいて。そう願ってはいたけれど、誰かに見つけられるのは怖いような気もした。高鳴る鼓動をおさえられなくて、美穂は坂を駆け上がって部屋に帰って、窓の外を見た。東の空から顔を出した上弦の月が、海を静かに照らしていた。