ep10 六本堂公園
セリナが見せてくれた写真たちはおよそ200枚。おかげで僕はこの半年のセリナの暮らしをたくさん知ることができた。写真に残っている、時間と空間の断片。誰かのボートで海に行ったり、劇場に演劇を見に行ったり、焼き肉を食べたりしているときのセリナ。
人と人の関係ってつまり、どんな時間と、空間を、共有したいのかだと思う。Discordで話しながらゲームをするのは、友だち。野菜を切っている横でフライパンを振ってるのは、家族。ぴりっと頑張って、責任や倫理を語り合うのは、同僚。肌を重ねあうのは、恋人。
遠い向こうの街の、遠い昔の時間のセリナを知るのは嬉しいことではあるけれど、僕が本当に共有したいのはそんな時間じゃないのにな、と思う。
夏の終りの夜だ。南の海の台風が、次の季節をこの町に呼び込む。フロントガラスが曇ってきた。靴を脱いで助手席のシートを半分倒して、セリナは膝を抱えてこちらを見ている。髪の毛がふれたり、離れたり。そのくらいの時間と空間。
「やせすぎじゃない?」
「え?そうそう。うらやましいやろ?あんたは太ったね。」
セリナが意地悪に笑った。もう空っぽの缶コーヒーに口をつけてあおってから、僕も笑った。
「わけてやりたいわ。」
「いらんし。」
ダッシュボードに、スマホを投げた。しばらく黙っていると、車の外から秋の声が聞こえてくる。リーンと遠くからなり続ける音。
「いや、それがさ。」
仰向けに、左手を額にのせて、眠っているみたいにセリナが話しだした。
「あたし今、休学してて。なんかダメなんよね。ご飯もあんま食べれんくて。」
そうなん?なんかあった?
「別に。めんどくて。なんかさ、掲示板? みたいなのでいろいろ言われるやん。知らんし、みたいな。」
「大学の?」
「学科の。」
「うわ、まじかそれ。そんなんあるの。イヤやな。」
「ほんと、ひどいよ。は?みたいな。そんなことしとらんし、って。」
「それは見たくないな。」
「まじまじ。」
中学生の頃から、目立つタイプだった。港町出身らしくはすっぱで、髪の毛も茶色くて、目が大きくて、頭も良くて、気さくで。女の子に慣れてない鳴海ニュータウンの男子たちはセリナがぽんと声をかけると、みんな赤くなった。セリナよりも背が低かった僕も、もちろんその中の一人だ。
「相当暇やなって、思うよね。そういう人たち。」
うーん、と曖昧な返事をして、セリナはごろんと横になった。小さな背中。肩の骨が上下している。
「私が悪いんかなって、思うこともあるけどね。」
僕は待った。待った?本当はなんて言っていいかわからなくて、黙っていた。シートを倒して、頭の後ろに手を回して、じっと。スマホの写真に写ってなかった彼女の時間を思った。小さな部屋でベッドに横になって、掲示板に書かれていたあれこれを見ているセリナ。泣いているかな。怒っているかな。気が強く見えるセリナは実際にバカにされると燃えるような視線で怒る。だけど、僕の頭の中のセリナは、ベッドに横になって一人で泣いている。
「それはさ、書く方が悪いやろ、絶対。」
秋の声だけが、遠くから響いてくる。新しくて寂しい季節が、もうすぐ始まる。
「やさしいよね、やっぱり。」
セリナはこちらに背中を向けたまま、子供みたいな声で言った。泣いているのかもしれない。やさしいのかな。大事なときに、何も知らずにいたのに。行こうと思えば、いつだってセリナのそばにいけるはずだ。今だって、サイドブレーキひとつ分の距離を、僕はかたくなに踏み出せないままでいる。怖いからだ。彼女のそばにいって、はねのけられてしまうのが。
「トイレ行きたい。」
「そこにあるよ。」
「うーん。」
今度はハッキリした声だった。
「あ、怖いの?」
「うん。」
「ごめんごめん、一緒に行くよ。」
シートから起き上がって、車から出た。海をそっと、鳴らしてきたような北からの風だ。靴を履いたセリナも車から出てきて、並んで駐車場脇のトイレへ向かった。足元の悪い階段を登りながら、セリナが僕のTシャツの裾をぎゅっとつかんだ。それでも僕は手を出せずに、黙って左手を少しあげて、気をつけなよ、と笑いながら階段を上がった。
手を伸ばせば、しっかりつかめていただろうか。セリナの右手と、心と、燃えるような瞳と、小さな背中と、魂と、それから先の時間も全部。
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