ep12 窓が割れる
今度の台風は三十年に一度の大きいやつだ。昼間のうちに買物をすませておいてよかった。タカヒロはそんなことを考えながら家中の雨戸を閉めて回った。2階の寝室、和室、居間。雨戸のついていない窓には養生テープをして、庭の物干し竿もおろして倉庫へ。
夜になって、雨風が強くなった。ゲームに飽きた子どもたちが懐中電灯で遊び始めて、妻が優しくたしなめている。停電になったらどうするの。タカヒロもそれに同調して子どもたちをしかるけれど、内心はそうでも無い。
三十年前の台風の夜を、タカヒロはよく覚えていた。夕方停電して、家の中がだんだんと暗くなっていく時の不安と高揚。タカヒロも姉と一緒になって、ロウソクや懐中電灯の明かりで影絵を作って遊んだ。
数年前に建てた家を、タカヒロは気に入っている。四人家族にしては少し広い家は、いつか両親を招き入れるかもしれないと考えてのことだ。今は書斎として設えてあるその部屋の、作り付けのブルックリン風の机と書棚。大きく作ったウッド調のテラスには、小さなプールも置けるし、バーベキューだってできる。
どれもこれも、守りたいものばかりだ。十年、二十年の日々の積み重ねの結晶。消えない魔法で作り上げた、カボチャの馬車。
だけどその一方で、タカヒロは密かに高揚していた。沖縄から届く荒れ狂うような暴風雨の映像。防波堤にたたきつけられた波から、人の背丈の何倍もの高さの飛沫があがる。
この台風が、何もかも吹き飛ばしてしまったらどうだろう。真面目だけが取り柄のようなこの四十年の人生を、全部。
タバコはやらない。お酒も誘われた時くらい。使い勝手重視のファミリーカーも気に入っている。パチンコやスロットやソシャゲにも興味は無いし、週末はゴルフよりも息子のサッカーを見に行くのが一番楽しい。不倫なんてもってのほかだ。公務員としてのキャリアも順調で、多分このままいけば部長クラスぐらいにはなれるだろう。
平日はスーツ、休日はポロシャツとチノパンで子供を連れて出かけるタカヒロは、傍からみると、どこからどう見たって普通の父親だろう。だけど仕事で疲れてつい子どもたちを邪険に扱ってしまった夜なんかは、目を閉じる時にほんの数分だけ、願ってしまうことがある。
人生をやり直してみたい。野球部になんか入らずに友だちとバンドをやって、朝まで飲んで。自転車で日本一周の旅もしたいな。バイトを頑張ってバックパッカーをやってみるのもいい。公務員じゃなくて福岡のスタートアップに就職して、仲間とマンションで寝泊まりして、事業がハネて株を売って、若者が集まるゲストハウスを作るんだ。結婚なんかしなくても、信頼できるパートナーがいればいい。サーフィンはちょっと恥ずかしいから、SUPでもやろうかな。
そんなふうにひと通り空想すると、いつも満足して眠りにつく。
バリン、と大きな音が鳴って、浅い眠りが覚めた。書斎の方から、大きな風の音が聞こえる。幸い停電もしていないようで、電気をつけて書斎をのぞくと、明かり取りの小さな窓が割れて、雨風が吹き込んでいる。
音に気づいた妻も起き出してきて驚いていた。2階で寝ている子どもたちは気づいていないようだ。
「何かものが飛んできてあたったんだろう。ちょっと外で直してくるよ。」
「大丈夫?とりあえず中からふさいで明日でもよくない?」
「いや、中からだと多分水が来ちゃうから。」
内側からの応急処置が済んだ後、タカヒロはレインコートを着て、ヘッドライトをつけて、ガムテープを持って外へ出た。風と雨は強いけれど、割れた窓側に回ると、隣家とのすきまで、案外風はそれほどでもなかった。
脚立を立てて、倉庫から取り出したダンボールとガムテープで作業にとりかかった。ダンボールを切って、数枚重ねて、まずはガムテープで粗く止める。雨に濡れた壁になかなかガムテープがつきづらくて苦戦した。
ダンボールの位置が固定できたら、その上から何重にも目張りしていく。バチバチとたたきるける雨にレインコートはそれほど意味がなく、タカヒロの頭と顔はもうずぶ濡れだった。水滴を手でぬぐいながら、タカヒロは高揚していた。
戦っている、自然と。自分の手の中に無い何かと。この身で。日々の仕事や家庭の中で、壊れそうな繊細なバランスを保つような戦い方じゃなくて、荒れ狂う何かと立ち向かうように戦う。俺は、そうだ、こういう刺激がほしかったんじゃないか。見えない人の感情に配慮しながら手探りで進むような戦いじゃなくて、たった一つのミスが命取りになるような。
バリバリとなる雷や風に翻弄される枝葉のちょっとした音の違いにも敏感になる。五感が研ぎ澄まされて、三脚にまたがる足にも力が入る。
ただそこでまた、暴風の間を縫うように虚無がタカヒロを襲う。だとしたら、俺が今塞ごうとしているこの穴は、なんだ。この二十年や三十年積み重ねたものを失うことが、やっぱり怖いのか。野生がタカヒロをあざ笑う。ちっぽけなやつだ、お前の腕はそんな仕事をするためにあるのか。お前の足はそんなところに立つためにあるのか。レインコートに打ち付ける雨音が笑い声のように聞こえて、ガムテープを切る手も荒々しくなる。
「パパ、大丈夫?」
部屋の中から、小さな声が聞こえた。娘も異変に気づいて起き出してきたらしい。
「大丈夫だよ、もうすぐ終わるからね。」
そう言い終わった瞬間、タカヒロは荒れ狂う暴風雨から、自分を取り返していた。血を分けた小さなものを守るという本能。これもまた、人の野生のひとつの姿だ。そんな天啓にも似た気づき。
守る、守る。これが僕の本能なんだ。妻が沸かしてくれた暖かい風呂につかりながら、タカヒロは目を閉じてそんな言葉を何度か反芻した。