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ep20 トム・ソーヤの家

鳴海ニュータウンは、たんこぶのように海に突き出した小さな山塊を切り開いて作った住宅地だ。造成が始まったのは1970年。高度経済成長期は円熟を迎え、西洋さながらの計画都市への憧れが流行していた時分になる。

鳴海ニュータウンの西側はそのまま西彼杵半島につながる。東側には鳴海川の入り江が口を開く。加工の北側付近はもともとCの字にえぐれたきれいな石浜になってきたけれど、切り崩した土砂をそのまま用いるような形で埋め立てられて、ニュータウンの中でも一等海抜の低い土地となっている。

そこに一軒、他の宅地の4倍ほどの面積を使って建てられた風変わりな家がある。「トム・ソーヤの家」と銘打って不動産会社が売りに出すその家は、地域の子供達からは「お化けハウス」と呼ばれている。

不思議な作りの家だ。一階はコンクリート造り。それをまるまる土台にするような形で、上に2階建てのログハウスが建っている。なぜか一階と二階の間には内階段が設けられておらず、二階に上がるには一度外に出て、外階段を使う必要がある。一階は浴室つきの大きな広間になっているので、パーティールームや宿泊施設として貸し出すことを目論んでいたのかもしれない。

前庭は車寄せがかなり広く取られていて、ここだけで家が一軒立ちそうな、贅沢な土地の使い方だ。2つの塔が並ぶようなログハウスは瀟洒な作りで、一見すると三十年前に建てられたとは思えない見事差だけれど、コンクリートのあちこちにツタが這っていたり、前庭の植え込みは雑草が生い茂っていたり、北側の外壁は苔が目立っていたり、空き家になって久しいことがうかがえる。

とはいえそれほど外観が荒れているわけでも無いトムソーヤの家が「お化けハウス」と呼ばれるには、ちょっとしたいわれがある。普段は誰も住んでいないはずのこの家に明かりがついているのを見た、という子供が一人ではなく複数いたのだ。夜、犬の散歩をしていると、暗い部屋の奥に小さな明かりが灯っていて、人影が動いているのが見えた。2階の窓から外をのぞく人がいた。何やらピアノのような音が聞こえてきた、などなど。

そんな証言は、別に事実無根の噂話なんかでは無い。なぜならトムソーヤハウスは福岡で開業医をしている林さん一家の別荘で、10年ほど前まで、たびたび彼や家族、その知人友人が利用していたからだ。

林さんの実家は、今はもう無い。というより、このトムソーヤの家の下に埋まっている。鳴海ニュータウンが造成される前、小さな石浜に一軒の古い家があった。半農半漁の、このあたりではごく普通の家だった。林さんは小さなころから成績が良くて、県内屈指の進学校から長崎大学の医学部へと進学した。

ニュータウンの造成の話が始まったのは、小学生の高学年頃。デベロッパーから破格の提示を受けた林さんの両親は、明治から続いていた家を売ることを了承した。林さんが市内の進学校に進むということもあり、彼が高校2年の春、一家は土地を離れて市内に小さな家を構えた。

蓄えも十分に順風満帆、というわけにはいかず、勤め人をやったことが無かった林さんの父親は何やら事業を始めてはたたんでを繰り返し、彼が大学4年生の頃、最後の資産をつぎ込んだ焼き鳥屋の屋台もうまくいかず、とうとう出奔して行方知れずとなってしまった。幸い住宅は一括支払いで買っていたので母のパートや奨学金でなんとか大学を卒業することができたけれど、林さんは以来父の姿を見ていない。

そして林さんが医師として勤め始めて2年が経ったある日、母も脳梗塞で急逝してしまった。林さんは相続の手続きの中で、父親名義だったはずの家が母親の名義に書き換わっていることを知った。母はいなくなった父となにかしらの方法で連絡をとっていたのかもしれない。

林さんはすぐにその家を売った。あまり思い入れも無い、むしろどちらかというと苦労した思い出の多い家だった。

鳴海ニュータウンに奇妙な家が誕生したのは、第一期の分譲が終わって町が建設ラッシュを迎えていた80年代半ばのことだ。瓦屋根の素朴な住宅が立ち並ぶ中、大きな敷地に突如として出来上がったログハウスは、目を見張る美しさだった。

林さんは週末になると家族を連れてたびたびこの家を訪れた。一階には当初小さなモーターボートが置いてあった。少し歩いた先の出船スロープまで台車に乗せてボートを運び、林さんは一人息子とよく釣りに出かけた。一階の浴室も当初は簡単な土間になっていて、釣り道具を洗ったり、釣ってきた魚をさばいて庭先でBBQなんかをやる姿もよく見られた。半農半漁の家の生まれらしく、林さんは魚をさばくのがとても上手だった。

林さんがどうしてこんな家を作ったのか、パーティールームに改装された一階から外を眺めると、その理由が推測できる。一階にはコンクリートの外壁に、妙に高さの無い窓がある。

もとはただのボート置き場だから、単なる明り取りのための小さな窓と思えばそれまでだけれど、窓の前に立ってじっと窓の外を眺めていると、それだけでは無いように思えてくる。

ちょうど手前の庭や道路は見えず、窓からは海と、対岸の陸地だけが見えるようになっている。その風景は、多分、五十年前と変わらない、幼い頃の林さんが見ていた景色だ。

まだ鳴海ニュータウンが影も形も無かった頃。父母から受け継いたこの土地で林さん一家は日々の暮らしを営んでいた。そこにはバカみたいな儲け話も、きらびやかな夜の街も、パチンコ屋も、何も無かった。小さな漁船と、裏庭の畑。自分たちが食べる分と、あと少しの現金収入。決して裕福では無いけれど、思い返すほどに幸福な日々だった。

父の仕事についてモーターボートで漁に出たり、裏庭のミミズを集めて浜から竿を下ろして遊んだ日々。夏になると服を着たまま海に飛び込んで、日が暮れるまで遊んだ。海の向こうの対岸から登る朝日はまぶしくて、裏庭の段々畑の向こうに沈んでいく夕日に伸びる影は美しかった。

鳴海ニュータウンができて、鳴海川の河口の東側にあった大きな浜も埋め立てられて、ショッピングモールになった。小さな窓で、変わっていく景色から変わることの無い風景を切り取ることで、林さんは守ったのかもしれない。ニュータウンの下に埋まっている、幸福だった小さな自分を。

子どもたちが大きくなるにつれて、林さん一家がトムソーヤの家を訪れる回数は減っていった。鳴海ニュータウンはリゾートではなくて、暮らすために作られた町。遊びに来るには不便も多い。大きくなった子どもたちは糸島や、もっと遠くの韓国やグアムに行くことを好んだ。

林さんの長男が大学生になる頃に一階のコンクリート部分が改装されてパーティールームになり、モーターボートは姿を消した。三人の子どもたちはそれぞれ学生時代に別荘に友達を呼んで遊びには来たけれど、それも一度か二度だった。

そうしてトムソーヤの家は、「お化けハウス」と呼ばれるようになっていく。年に一度ほど業者によって手入れはされているけれど、前庭のレンガの車寄せは、レンガのすきまからあちこち雑草が生えてきて、植え込みは夏が終わる頃には雑草が生い茂り、潮風にさられれて手すりやサッシは錆びてきている。

新しく鳴海ニュータウンに入居した若い家族なんかは、団地の端のこの家の前を通るたびに、「もったいないね」「貸し出せばいいのにね」なんて口々に言うけれど、しばらくすると慣れてしまって、もう話題にも登らなくなる。もちろん、この家の下にきれいな石浜があって、小さな幸せな家族が暮らしていたことを知る人は、一人もいない。

ある週末、珍しく銀色のセダンが1台、トムソーヤの家の車寄せに止まっていた。その晩、一階のパーティールームには、夜遅くまで小さな明かりがついていた。

トムソーヤの家が不動産会社の販売ページに掲載されて、「お化けハウスに夜中に明かりがついていた」と鳴海小学校の生徒たちが盛り上がったのは、その翌週のことだった。


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