私たちはヒラギノの声で話す
いつしか私たちは、自分の手で文字を書くのをやめて、画面に入力した文字で言葉を伝えるようになった。
スマートフォンはすべての情報を一括して記録してくれる媒体となり、紙のメモやペンを持ち歩くことは減った。twitterは言葉のおもしろさに気づく人々や、言葉を「自己帰属物」として扱う人々を増やした。
私たちの一番しっくりくる文字は、iOSのシステムフォントである「ヒラギノ角ゴ」になりつつある。
そして、それは「一番しっくりくる文字」でもあり、「私の思いをもっとも形にできる文字」に、おそらく、ほぼなっている。
ヒラギノで文字を書くことが普通になった後、一年ほど手書きの日記をつけている時期があった。自分の考えや感情を書き出し、頭の中のものを外に出して整理することが目的だった。
目的を果たすのにそのやり方は適していた。蓄積された自分の文字と、記録された日々の厚みに充実感があった。
ただ、iOS以前のように、「書き記して記憶しておきたかった感覚を、正しく保存できている」とは感じられないようになっていた。以前はアイデアをペンで書き記したメモ帳の言葉の中に、言葉以上の記録が残っていた気がしていたのに。
実際日記は書くこと自体が目的で、そこに書かれていたものについてはあまり覚えていない。
「自分の文字」はある。でもそれは「自分の言葉」ではない。
私の手書き文字は中学時代、友達と交換する小さい手紙をかわいく仕上げるため、ノートの隅で練習された。はねやはらいを強調していて、文字間が広く、尖っている。十数年経った今でもその歴史的経緯が残っている。
思うに「自分の文字」というのは、付属される情報が多すぎる。前述のように、その文字が形成された経緯に「私」という書き手の人物像は入っているが、記録したい言葉に対して、毎回そのフォーマットを呼び出すことはノイズになる。言葉の内容よりも、フォーマットの情報が「受け手に伝わる情報」の容量を埋めてしまうからだ。
(ヒラギノ角ゴ ProN W3。画像はFONT PLUSより)
ヒラギノ角ゴは一字一字に内包する余白が広く、文字の形が分かりやすい。安定していて、特別な感情を付与しない。綴られた文章の内容に合わせて伝える印象を変える懐の深さがある。現代的でニュートラルなフォントだ。
そのニュートラルさが、私たちに合った声として、機能している。
言葉を書くとき、伝えたいことを込めるとき、私たちは、着地する形を探している。読み手を想定するとき、言葉が未来の自分のための記録となることを想定するとき、読み取りやすい文章になっているか、間違って伝わらないか、伝えたいことの取りこぼしがないか、私たちは推敲する。
書きはじめる時のフォーマットとしても、ゴールの姿としても適しているヒラギノ角ゴは、行き着く形の可能性を阻害せず、時に思いがけない可能性を示すガイドとして並走してくれる。自分が知っている自分の言葉以上のものが生まれてくる可能性すらそこにはある。そこに言葉を書くおもしろみが生まれ、自己表現の可能性として言葉を扱う人々が増えていく。
また、共感を求めてSNSに投下される言葉の「共感」部分をヒラギノ角ゴはアシストする。言葉の内容以外にバイアスを持たず、たくさんの人にとって自分の手足となるこのフォントは、言葉に自身の主観を代入しやすくする。
流行りの言葉や「twitter構文」と呼ばれる文体が、目的通り共感やコミュニティへの帰属感を生むのも、それらが同じフォントの同じテキストデータでやりとりされていることが大きい。
インターネットの普及が自己表現する人々を増やし、一人一台スマートフォンを持つ時代がそれを加速させた。
iPhoneというデバイスに標準のシステムフォントが設定されたこと、それは製品上の都合であり、体験の一貫性のためだったのかもしれない。
結果的に「ヒラギノ角ゴ」という一つのフォントは私たちの声となり、ヒラギノ角ゴをベースとしたコミュニケーションや表現プロセスを生んだ。
いつか、技術革新や文化の変容とともに、ヒラギノ角ゴに変わる次の時代のフォントが浸透し、このフォントも懐かしいものに変わるのかもしれない。
その日まで、「この字が一番しっくりくるね」って、私たちはヒラギノの声で話す。
締めとして、今年私が好きだったヒラギノの言葉をいくつか紹介させていただき、この記事と2020年を終わります。
この記事は GMOペパボデザイナー Advent Calendar 2020 の19日目でした。
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