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本質的な漫画力を身につけるには?漫画における近接項と遠隔項

先に一つの例え話をさせてほしい。

ある医者が患者に風邪をひかせたいと考えた。風邪の症状として挙げられるのは「熱がある、頭痛がする、体が重い。」である。
そこでこの医者はこれらの症状を患者に付与することで風邪を引いてるのとと同じ状態にさせようと考えた。
まず医者は患者にカレー粉と唐辛子を塗りたくり熱を出させた。次に頭を殴り頭痛を起こさせた。最後に鉛をくくりつけてランニングをさせ体を重くさせた。
果たしてこの患者は風邪を引いていると言えるだろうか。

当然、ノー。
「熱がある、頭痛がする、体が重い。」は風邪の兆候であり、これらを備えているからといって風邪を引いている状態とイコールになるわけではない。
この例えの風邪の症状に当たる部分を「近接項」その症状を生み出す風邪という原因の部分を「遠隔項」という言い方ができるらしい。

今回はそれらについて書かれた「私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化」という本の内容を踏まえて、これを漫画に対してはどう活かせるかについて考えていきたい。

近接項と遠隔項

まず重要な近接項と遠隔項についてより詳細な説明を加える。
これらはあの「暗黙知」で有名なマイケル・ポランニーが提案した概念である。この概念を一言で説明するなら、

  • 私たちが実際に体験できる様々な情報が「近接項」であり

  • 世界に存在するそれを生み出す原因系が「遠隔項」となる。

これについてポランニーが用いた盲人の杖(白杖)という例え話がある。

自分が盲目であると想像してほしい。周りのものを認識するために杖を使うとする。
杖がなにかに当たった時に私たちが感じるのは杖を握る手の表面上の刺激である。しかし杖を使い慣れた人はその時「手になにかを感じた」と認識するのではなく、杖の先の障害物を感知する。
このとき、手に伝わる表面上の刺激が「近接項」であり、杖の先に触れた物体が「遠隔項」である。
さらに、多くの場合実は遠隔項自体も、さらなる原因系が生み出す近接項である。

そして重要なこととして無理に近接項に注目すると、遠隔項が知覚できなくなるという問題がある。
杖から手のひらに伝わる感覚に意識を向けすぎると、その感覚を与えた遠隔項から意識は遠ざかる。

にも関わらず近接項にばかり注目し、元々の目標達成の「兆候」ばかりに意識がいってしまうことはよくある。
特に近年の学校教育ではその傾向が強くなってきており、教えたいことの要素を分解し、ひとつひとつ学んでいけばそれが身につくという誤った教育論がまかり通っているとのこと。当然それでは遠隔項が見えなくなっていく。

では漫画においては近接項、遠隔項とは?

とはいえ別に教育についてどうこう言いたいわけではない。
言いたいことは「近接項にばかり注目していては本質的になにかを習熟することはできないだろうので遠隔項を知覚するのが大事」ということである

では用語の説明はこのくらいにして本題に入りたい。

漫画においてはどうなのか?

漫画界においても教育現場で直面している問題と同様の現象が発生しているのではないか、と感じることがある。
(注釈:筆者はあくまで素人であり、全くもってマンガ業界に携わっているわけではないことをご留意ください。実際の漫画創作現場について言っているわけではなく、あくまで「漫画創作についての書籍」や「YouTube等で語られる漫画創作論」のみを議論の対象としています)
思うに巷にあふれる「漫画の描き方」というものは大抵この近接項に当たるものを学ぶやりかたが多いように思われる。いくら良い漫画の良い要素(例えばいい構図、いいセリフ、いいコマ割り)を学んだところでそれで良い漫画家になれるわけではない。それらはあくまで「良い漫画家」という遠隔項から生み出される兆候にすぎないからである。


(もちろんそれらの知識を学ぶことがなんの意味もないというのは間違いだ。今回参考にした文献『私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化』の内容を借りて言うなら、
「努力している人」にはそれらの知識は伝わりうる。それは彼らの中に「良い漫画」を描くための原因系が形成されつつあるから。
ということになる
しかし初心者の場合ではそれは起こり得ない。その原因系は未だ形成されていないからだ)

では初心者漫画描きはどうすれば良いのか?どう遠隔項にアクセスすればいいのか。それがわからなければ上達しようがない
ここで他の分野を参考にしてみる

伝統芸能の技の伝達、熟達においては学校教育とは全く異なる原理が働いているとのこと。近接項を超えた上達のヒントが得られるかもしれない

伝統芸能の徒弟制ではどうしているか


1,模倣
学校教育では学ぶべきことを細分化し、ひとつひとつの要素を順番に教えられていく。しかし徒弟制では、最初から目指すものの全体像が与えられ、そこに向けて練習を重ねていく。基礎も応用もなく、非分割的である。
2,自ら問題を制定
学校教育では教師が問題を与え、それを解いていく。一方徒弟制ではそもそもフィードバックが抽象的にしか与えられないそう。いいか悪いかしか言われないため、何が自分の問題か、自らなにをすべきか探索していく必要がある。

一貫していることとして、「自ら考える」ということを重視しているようだ。これは近接項は「情報」として人に「伝達」できるが、遠隔項はそうはいかないからだろう。遠隔項は学習者が自ら考え、掴み取っていく必要がある。
これは恐らく漫画においても同じことが言える。あらゆる近接項を学ぶことはできるが、遠隔項はその性質上、他人に言葉などで伝達することは難しい。そのため近接項の向こうにある遠隔項を常に意識することを忘れてはいけない。

むろんはじめから遠隔項が見えることは期待できない。学習の初期には近接項に注意を向けていくしかない。しかしそこで自らが問い、目標を生成していく必要がある。それを通していく中で小手先だけではない本質的な漫画力を身につけることに繋がるのではないかと思う。

また、言い添えておきたいのは近接項と遠隔項どちらか一方が意味的な優先性を帯びているわけではない。近接項は遠隔項を前にした時の身体感覚なのであり、これを抜きに遠隔項だけを理解することはできない。あくまで近接項にのみ偏重して学習するのが問題ということなのである。

とはいえ目標の自己生成は簡単なことではない。
何が伝統芸能の学習者の困難な学びを支えているのか。
それは威光模倣という概念だ。これは模倣者自身の価値判断で「良いもの」とみなし威光を感じることで模倣する動機となるということ。
漫画を描こうと思った時、誰しも感銘を受けた作品や憧れた存在がいるはず。その人を敬愛し、その人のようになりたいと、またはそのような作品を描いてみたいと思うことが始まりだと思う。それを忘れず、彼らの「遠隔項」を掴み取ろうと模倣していくことが結局一番の近道なのかもしれない。

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