「漫画が上手くなるためにはたくさん描け」の落とし穴

筆者は今まで「実際に作品を完成させることが漫画力を高める最短の道だ」と考えてきた。それ故、いつまでも漫画を完成させられないことに焦りを覚えていた。早く漫画を完成させなければ上達はできないと。
しかし必ずしもそうではないのではないんじゃないか?と思い始めた。きっとそれに至るためにはいくつか準備段階を踏む必要がある。
改めてここで漫画を完成させることの有用性を考えていきたい。上達という面にみ的を絞って。

漫画を完成させるメリット

「作品を完成させることが一番の近道」であるということは疑いようがない。作品を完成させる利点はなんなのか。改めて確認したい。
まずネームにおいて、実際に作品を作ることは収穫が大きいと考える。作品一つを通してさまざまな経験値が得られるからである。訓練になると言ってもいい。
なんの能力が身につくのか?おもに3つあげられる。
1,構成力
2,演出力
3,企画力
1,の構成力については言葉そのままに、構成を考える力がつく、ということでいいだろう。漫画の初期構想段階では首尾一貫した物語にはなっていないため、プロットに起こして起承転結や三幕構成などの読者に伝えられる形に成型する必要がある。そうしないと漫画は完成させられない。
2,の演出力は分解すれば、構図、コマ割り、効果、カメラワーク、シャレード、演技などに分けられるだろうか。この中のほとんどは、正直画力が関わってくると思われる。ということは、頭の中で考えるだけではうまくならないということ。実際に描いてみてトライアンドエラーをしていく中で上達するものだ。そして漫画の出来を左右するとても重要な能力だといえる。数をこなす必要がある。
3の企画力に関しては、一体どうすれば身につくのだろうか?想像もつかない。一つ言えるのは、こちらもやはり実践を繰り返すことが一番の練習法だろうということ。とはいえ企画に関しては作品を完成させなくても数を出すことはできる。必ずしも完成させることが必要というわけではないだろう。それでも一度漫画を完成させることに慣れておいたほうがいいだろう。どんなアイデアは適切で、どんなアイデアが無茶なのかを肌感で把握しておいてからでないと企画アイデアを考える土俵にすら立てない。

最大のメリットは「反省できること」

と、色々書いたが、それでもやはり最も大きなメリットは反省できることにほかならない。作品を完成させないと人にみてもらってフィードバックを受けることもできない。評価ができないと反省、改善をすることができない。何も作品を生み出さないと課題も見えてこないし、足りない部分がなにかを見つけることはできない。トライアンドエラーで少しずつ向上していくというのが王道だというわけだ。
これは確かに正しい。ずっとそう信じてきた。だから実際に作品を描いてみた。そして気付いたことがある。
描きたいものを明確に見出せていなければ反省もクソもない
自分でもどんな漫画が描きたいかをよくわかってないまま漫画を描いてしまうと、当然自分がどういう作品を描いていきたいかは伝わらない。自分でもよくわかってないので、とりあえずコマを埋めるためだけに筆を動かす。結果、自分の描きたいものがほとんど反映されない作品が出来てしまう。
自分の描きたいものを全く反映できていない作品を作ると、描きたいものは誤解される。誤解されると当然誤った方向へ導くアドバイスを受けることになる。とはいえ言葉としては何も間違っていない、善意の、適切なアドバイスをいただける。それに対して「なんとなく違うんだよな」と潜在意識では感じながらも、自分でも描きたいものがわかってないので何も言えず、「じゃあそうなんかなあ・・・」と受け入れるしかなくなる。
そしてそれを繰り返す。作品を作り、人に改善点を教えてもらい、それをもとにまた新しい作品を作る・・・それをするうちいつかは自分の描きたいものを見いだせるのかもしれない。それならそれでいいんだが、きっと多くの場合はそうはならない。途中で挫折して漫画を描くのをやめてしまうだろう。
なぜなら描きたくもない作品を描くのはとても苦しいからだ。これは筆者は強く実感した。

にも関わらず、筆者が今まで話した多くの漫画家の方はなぜ異口同音に「とにかく漫画を描きなさい」とおっしゃるのか。
それには二つの理由がある
一つは、生存性バイアス。つまり、たくさん描いてきた人しか漫画家としては生き残っていないということ。それは、先にも書いたように「それが出来ない人は辞めていくから」だ。とにかく作品を完成させるのが漫画家には必須。それが出来ないのならどこかで挫折する。つまり、漫画家とは自然に作品を完成させられた人たちの集まりなのだ。彼らは自然にそれを実行し、そして上達してきた。それが一番の近道だと認識している人だけが漫画家として成り立っているということなんじゃないか?
漫画を完成させられない人の気持ちなんて、きっと想像もつかないんだろう。
二つ目は、「漫画を完成させられないなら漫画家には向いてない」と彼らは考えているからかもしれない。一理はある。漫画家とは、当然、漫画をたくさん描くことが必須だ。上達においてもやはり漫画を描くことは重要だろう。だから漫画家を目指す、もしくは上達を目指すならまずたくさん描くことが第一条件であり、息吐くように漫画を描けなければいけない。しかし「漫画を一作完成させられない人は全員漫画家の資格はない」なんていうのは少し暴論すぎる。(勿論誰もそんなこと言ってないが)
最初から漫画をたくさん描ける素養をもっていなければ資格すらもっていないことになるのか?そんなはずはないんじゃないか。どうすればいいか。

先ほど「漫画を完成させることに苦労をしてしまうようでは漫画家にはなれない」みたいな話をしてしまって、いきなりそれと反する話をしてしまうが、作家には2パターンいると思う。
一つは「最初から自分の描きたいものを掴んでいた人」
もう一つは「最初は自分の描きたいものが分からなかった人」
誰もが自分の描きたいものを最初から理解していた訳ではないはずだ。一部、描きたいものが分からないという人もいたはず。彼らはきっと、描きたいものが簡単には掴み取れないややこしいものだったに違いない。彼らのそれは、深い思慮や鋭い洞察、弛まぬ努力が必要だったことだろう。
では彼らは具体的にどうやって自らの描きたいものを掴んだのか?考えてみたい。

描きたいものの見つけ方

思いついた方法は2つ。
1、好きな作品を分析し、好きな要素を理解する
好きな作品には自分が好きな要素を詰まっているはず。作品を繰り返し読んだりして要素分解することによって、それらを拾い上げることが近道になるのではないかと思う。
ただし一つ問題として、知らない概念には気付くことが出来ないというものがある。
筆者は以前シャレードという概念を知った。シャレードとは脚本の理論で<映像に映る“何か“を象徴として示すことで、言わんとする意味を伝達すること>を言う。
例えば、「お客が入らないラーメン屋」を描写したい時。店主に「全然客が入らなくてね」とセリフで説明させなくても、【店主が新聞を広げている】、【店内に洗濯物が干してある】、【子どもが座敷で宿題をしている】等を映像で描写することでその意味を示せる。
このシャレードを知る前からなんとなくこういう概念がありそうだな。ということは感じてはいた。しかしこの概念を言葉として知ることでそれ以上に理解は深まったと感じている。人は言葉がなければ考えることができない。言葉を知ることで語ることができ、この場面でのシャレードはこういう意図があるとか、他の作品と比べてどうだとか考えることができるようになった。言葉を知り、概念を身につけることで、このように作品の要素に光が当たることになる。逆に言えば知らない概念には光が当たらずスルーしてしまっている可能性がある。そしてその知らない概念の中に自分が好きなもの、描きたいものが落ちている可能性がある。先程のシャレードの例にもあるように、心で感じることはできる。でも考えることができない。すると学ぶことができなくなり、暗中摸索に陥りがちだ。
漫画はとても複雑な要素の集合体として成り立っており、それぞれの要素に好き、嫌いが細かく分かれるものだ。ある要素が好みでもそれに隣接するほかの要素が大嫌いだと、全体として台無しになることもあり得る。こういうわずかな掛け違いを起こさないためにも、漫画の要素分解は細かく行っていく必要があると思っている。どの要素は良くて、どの要素がダメなのか。正確に認識する必要がある。
とはいえ言い添えておきたいのは、すべてを言葉にする必要はないと思われること。結局のところ言語なんていうのは大した情報量を持ち得ない。
この記事のバイト数なんてせいぜい10KBほどだし、メラビアンの法則でも言語情報は全体の7%程度だと言われている。まあこれらの例は正直いうって詭弁だが、とにかく、言葉でなんでも説明できるとは思っていない。言葉でなんでも伝わるなら漫画を描こうとなんて思わなかっただろうし。
大事なのは頭と心で理解すること。言葉を知ることで理解や思考が進むなら存分にそれを利用すべきだが、頭と心で理解することに優先するものではない。机上の空論にはなんの意味もない。
2,自らの好みや感情を深堀りする
自分の中から想いや価値観を見つけていくというのも重要だと思われる。常日頃から自分が何に心を動かされているか?というのを観察し、それを記録していく必要がある。
そしてある程度集まったら、自分の心が動かされうるもの、そして自分が描きたいと思えるものの目星をつける。そしてそれを元にして作品を作る。
思うに、自然に描きたいことを表現できる人というのは、今までの人生で日常にこれを行ってきた人なのではないかと思われる。自分の好きなこと、感情を動かされたことを常日頃から人と語り合ったり、発信したりしてきたんじゃないか?そういう交友や環境に身をおいてきた人なんじゃないかと思う。筆者とは真逆だ。だから今かけてないのかもしれない。
これができるようになる訓練が必要なんじゃないだろうか。

これらの2つをすべからく行っていった人が自分の描きたいものを掴み取っているんじゃないかと思う。


・・・正直こんなところで立ち止まっている時点で才能に欠けるし、向いてないんじゃないかと言われるだろう。筆者もそう思う。
きっと上手く漫画を描けるようになる人というのは、自然に筆を手に机に向かってしまうような、漫画を描かずにはいられないような、そんな人のことを言うんだろう。それに比べたら筆者なんてどう考えても上手くいきっこない。
では漫画を描くのに向いてない人は漫画家を目指してはいけないのか?最初からその資格を持っていないのか?どうがんばったって全部無駄なのか?
そんなはずはない。漫画の才能がなくたって努力を重ねることで良い漫画が描けるはずだ。
私がそれを証明する。

追記

恥ずかしながら、筆者は今まで漫画の分析を真面目に行ってきてはいない。特にシナリオの構造について。
漫画の原作を描くことを志すものとして、それはいささか問題なのではないかと今更感じ始めた。
筆者が最も好む漫画「ハンターハンター」について、作品の構造上どの部分が優れているのか。それをしっかりと理解する必要がある。
また、漫画の要素分解も必要だ。

筆者は才能に欠ける。知性も足りていない。
漫画においてはこの2つは重要である。これに欠ける人間はその分だけ他のなにかで補わなければならない。
なにで補えばいいか。その一つの答えが頭を働かせることだと考えている。
頭がいいことと頭を使っていることは違う。頭が多少悪くても、秀才以上に頭を使っていればその差は埋めていける。
それにも関わらず、筆者はそれが足りていなかった。本当は、誰よりも考えて考え尽くしていかなければ追いつかないというのに。
とはいえ漫画を描いていないのに頭でっかちになったり評論家気取りになってしまっては意味がない。(むしろそれを恐れて分析を避けすぎていた節もあるが)あくまで必要なのは「漫画を描くための漫画への理解」。言葉を弄するために知識をつけることだけはあってはいけない。

とにかく頭でっかちで言葉を遊ばせることにだけならないように気を付けながらも、頭を使って考え尽くしながら真剣に漫画に向き合って行こうと思う。

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