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京都大学11月祭 「パレスチナ写真展」に向けて

私が選ぶ1枚

担当:ゆいこ


提供いただいたこの一枚は、難民キャンプのガザの様子です。通電のない夜間は焚き火で暖をとります。子供たちも周りに集まっています。

私が小学校中学年の頃、東日本大震災によってしばらくの間停電が行われていました。たった数時間の間ですが、家の中にろうそく一つ、テレビも付かず、お風呂も入れず、電池の限られた携帯電話は極力触らない。仕方がないことでした。興味深いことに周りのクラスメイトと話していても、停電を怖がる子は本当にいなかったと思います。
それは今考えると少し不思議です。
ガザでも、夜間にヒューズが飛び、暗闇の中で修理をする難民キャンプの子供たちがいます。停電も毎日最長20時間以上、頻繁に起こるので、修理作業も慣れっこだそうです。
子供たちは、一見すごく「たくましく」映ります。自分では到底できっこありません。逆に、写真を見ずとも紛争下の子供の不安と恐怖は当然のように想像できますが、ここにも日常があって、友達と遊んで、日々の楽しさがあることも目の前の写真は物語ります。

またその上で、日常の写真を見ていると、だんだんと「たくましい」の深層が見えてくる気がしました。例えば震災後の停電の後、「震災で亡くなった人たちや、家族が亡くなった人、避難している人のことを考えればたいしたことはない」と仲の良い友達と話していた覚えがあります。それでも、「この停電の状態で余震が来たらどうしよう、逃げられないだろうな、今度こそ死ぬだろうな、親やあの子にはもう会えないだろうな、津波きたら怖いから海岸には行けないな」楽しい日常の中にも毎日そんな思いがあって、どこか誰かに共感してもらいたい気持ちが確かにありました。


この写真の「たくましい」子供たちはどんな思いをしているのでしょうか。日常に組み込まれた不安や恐怖は語ることが難しいです。心の傷が「日常で慣れているから」「これより怖いものがあるから」と自他共に不可視化されていき、マイナスの感情を持つことが日常になっていく。日常になれば怖さが消えることはないのは確かです。


無論自身の経験とは全く違います。そこにいる子にしか到底分かり得ない不安や恐怖があります。でも綺麗ごとではなく、自分ごとだから「しろう」とすることも一つです。きっと写真からは知る以上のことが想像できます。遠い世界の話ではありません。どなたでも、ぜひ写真展にいらしてください。

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