日本百名城にふさわしい箕輪城
箕輪城
箕輪城(みのわじょう)は群馬県高崎市、榛名山の東南方向に広がる独立丘陵上の中心部に位置します。城の西側を流れる榛名白川や椿名沼と呼ばれる湿地帯などの地形を巧みに利用した構造となっています。昭和六十二年に国史跡に指定されました。高崎市では平成一〇~一八年度まで、本丸・二の丸・三の丸・郭馬出など城中枢部を中心に発掘調査したそうです。その結果、井伊直政期の門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、掘立柱建物が見つかったそうです。さらに、平成一七年に「日本百名城」に選ばれました。
1500年頃に長野氏が築城したといわれています。長野業尚(なりまさ)、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の時代に本拠とし、最初の縄張りとなったと考えられています。しかし、1566年の武田氏の西上野(現在の群馬)侵攻により落城し長野氏は滅亡してしましました。その後は、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と次々と主が代わりました。特に最後の城主の井伊直政は徳川四天王のひとりで徳川家臣の中で最大石高の一二万石でこの地へ封じられています。井伊直政は箕輪城の改修や城下の整備など行いましたが、1598年、城を高崎に移し、箕輪城は廃城となりました。
縄張りの変貌
箕輪城の縄張り(お城の規模)は長野氏・武田氏時代(1期)、北条氏時代(2期)、徳川氏時代(3期)の3期に大きく分けることができます。1期は本丸南東側と北西側に堀が特徴的で、2期は本丸堀と呼ばれる本丸の南東側から西側を囲むように堀が掘られていました。3期は現在の規模となり、本丸堀が御前曲輪まで深い堀が巡らせてある構造となっています。
井伊直政時代の箕輪城を攻め落としてみる
ここからは登城した経験から妄想でどのように攻め落とすか考えてみたいと思います。まず軍を二手に分けて南側と東側に配置します。東側の部隊は現在の駐車場となっている搦手口方面から攻めます。しかし城の東側は深く大きな外堀(空堀)が行く手を阻み、容易に侵入はできません。万が一、侵入できたとしても、搦手馬出からの反撃を受け何度も押し返されると考えられます。この城の最大の防御ポイントは二の丸です。特に南側の郭馬出は北条系ゆずりの強固な施設であり、この時代では関東最大規模といわれる二階建ての櫓門があったそうです。この二の丸を落とすことができればもう落城は確実となりますが、はたしてそれまでにどのくらいの犠牲がでるのでしょうか。ちなみに御前曲輪に井戸があるため、かなり押し込まれている状態であっても長期にわたる籠城戦も可能であると考えられます。
箕輪城のここを見なければ帰れない
郭馬出(西虎口櫓門)・・・平成二八年に復元されたばかりの櫓門。城兵気分をご堪能ください。大堀切(石垣も)・・・ここがこの城攻めの要所となるので自分が足軽になった気で見てください。三の丸石垣・・・ここには古い石垣(北条時期)と新しい石垣(徳川時期)が同時に存在し、古い時代は一人で運べるくらいの石を用いています。大きさで判断できるので是非見比べてみてください。本丸南堀・・・この城で一番大きな堀になります。鉄砲も想定した造りになっているのでしょうか。御前曲輪西堀の石垣・・・ここは徳川時期に改修されているので、大きな石も使われています。石は城の西側を流れる榛名白川から運んだものだそうです。御前曲輪井戸・・・長野氏時代に武田氏に攻め落とされた際、一族の女性や子どもは井戸に身を投げたといわれています。
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