違和の人
急に苦しくなる。
いつものこと。
久々に感じた、劣等感。
幸せそうな人。コンプレックスのなさそうな笑顔。
久しくこんな感情にはならずにすんでいたのに、思い出してしまった。
でもこれは、誰かが悪いわけじゃない。
誰かが悪いわけじゃないから、対処が難しい。
距離を置く、とか、そういうことじゃないのだ。
そういう事じゃない。だって、私は、会いたいと思うし、好きだから。
私が同じように、「幸せ」になればいいのか。
無意識に人を傷つける恐ろしい言葉を紡げてしまうように、そんな不幸を知らないからこその残酷さを、私も持てばいいのだろうか。
不幸を知らない人の、無神経さ、どうされたら傷つくか、傷つけられたことがなければ知らないのは当たり前だ。
だから傷ついたことのある私には同じように振る舞うことはできないと思う。
そして、あの人が悪いわけではないと思う。
ただ、「不幸」を知らないだけなのだから、仕方のないことだと思う。
そもそも、仕方のないこと、で済ませられるくらいの違和感でしかないのだから。
そして、さらに、傷つけられる対象は私ではないのだから。
あの人も私も知らない、「誰か」が傷つくかもしれない、そんなところにまで違和を感じてしまう私の方がおかしいのだと思うし、どこからが言葉狩りになるのか、私にはわからない。
それに、無意識のほんのわずかな見下しには、私も覚えがあった。
私だって、いつでもそうだ。人を見下さないと自分を保てないのだと思う。
無自覚に幸せな人の、他人の幸せを許してなるものかという空気、自分よりも上にいかせてなるものかという空気、それがまとわりついて苦しかった。
仕方がない、仕方がないことなのだ。
これは考え方の違いであり、環境の違いなのである。
だから、だれが悪いのでもない。
私も、思いつく限りの自分の悪口を考えられたら、きっと辞書みたいになってしまう。
でもそれは私の欠点ではあるかもしれないけれど、私が悪いわけではないのだ。
そういうことは往々にしてある。
どうすればこのまとわりつく空気を振り払うことができるのか、ただそれだけが課題であり、そしてそれがいちばん、難しいから困っている。