自我ナシ自我アリ

うーん、やっぱり俺はアイロニーの人なんだろうな、と考える今日この頃。対象にアプローチするにしても、メタに分析しないとその面白さがわからないタイプ。デカルト的とでもいうべきか。いわゆる大衆的なエンタメ作品(最近のものでいえば『ガールズ・バンド・クライ』など)を見るにしても、ヒットした要因は何かということをまず考えてしまう。例えば、10話はカフカの「オドラデク」の変奏だな、といったように。




5分くらいかけて考えた架空のTweetです。かなりの出来栄えだと思う。キチゲが爆発しすぎて、書きながら途中、ちょっと気持ちよくなっちゃっている。非常にコクがあり、非常に味わい深い。あまりに臭い文章が書けたので、大満足です。

お気に入りのポイントは、「俺は〜」という一人称がいきなり登場するところ。あと、「うーん」「大衆」「とでもいうべきか」あたりの「一段人より上に立ってて、他の人とは違う」感をしっかり出すための言葉尻の数々で手数を稼ごうとしているところ。急に特定の作品名が出てくるところも、「自分の知ってるものの話しかできないんだな」感が出せてるかと思う。


上のはちょっと誇張しすぎな感じもしますが、でもTwitterって、こういう文章を平気で書いちゃう人が結構いるんです。自意識がむき出しになっている。読む人がどう思うかなんて一切気にしない。「こいつ、やっとるなぁ」の文章。唐突な一人称からの自分語りが入ると「はじまったな〜」とテンションが上がる。誰でも一回は書いちゃうと思う。


ところで、Twitterをやってたんですが、最近あんまりやらなくなりました。意味がないから。インターネットは自由な空間なので、表現の自由がある。Twitterもそういう場だと思う。ただ、最近のTwitterは本当に厳しい。みんな言ってることだけれども、本当に厳しい。


■自我あり

自我が多すぎる。

この間、Twitterのオススメ欄を開いたところ、なんか大学生のアニメアイコンくずれみたいな人が御高説を、垂れていたんです。その人、同人誌とかも出している大学院生で、自撮りとかもあげていました。見てみたら、ブサイクでした。ブサイクが、なんか歳下の人に、驕り高ぶり散らかして、アドバイスをしていたんです。ちょっと笑っちゃいました。自撮りはすぐ消されちゃったんですけど、保存しておきました。どこかで役に立つかもしれないですから。

知らない文系の学生とか、書店員とか、小規模出版社の経営者とか、あと古書店店主とか。そういう人の自我がちょっとずつ小出しにされているのって、なんであんなにイライラするんだろう。

トレンドを見たら、何かご意見番みたいなアカウントの人たちがいっぱいいて、やれやれという感じを出しつつそれにいっちょ噛みしようと、言及している。世事に疎いことはどちらかというと良くない。でも、あらゆる出来事に対して、なにかにつけていちいち140字くらいの情報量で発信するのって、そんなに必要なことなんですかね。オピニオンの形をした自我が大量に投下されてるのって、あんまりにも多くそれにさらされていると、さすがに具合が悪くなってくる。かしましいな、やめてほしいな、と思う。とくに8月の頭は最悪でした。清潔感の話とキチガイピグレットの画像とフワちゃんの話のツイートが、オススメ欄に交互に出てくるんです。病気になるかと思いました。


はじめのうちはいいんです。膿栓とかでっかい耳クソを取る動画とかがYouTubeにあって「うわ、汚えなぁ」と思いながらも、ついつい見ちゃうんです。でも、そういうのを楽しめるのって、プライベートがうまくいっていないときが多い。それが癖になって、セルフネグレクトみたいなコンテンツばかり摂取していると、人間って壊れてくる。自意識と思想とオピニオンにNOを。


あと、やっぱりこれはつらいな、と思ったのは、すごいおしゃれななんJ民のイラストが流れているのを見たとき。なんか等身が高くて、かっこいいんですよ。昔なんJに入り浸っていて、そこで受験と就活とかしてたから、かなり動揺した。いかにもTwitterっぽい言い方をしたら、「文化盗用」っていうやつです。こんなの現代のミンストレル・ショーですよ。それを見て、ああ、もうここには住めないんだなと思いました。勝手に心が折れてしまったんです。繊細ですね。それで、Twitter見るのやめました。


話は変わりますが、今『負けヒロイン』とか『ロシア語でデレる隣のアーリャさん』みたいなアニメが放送されているんです。テレビ受像機等で。で、そのEDが「ゼロ年代のJ-Popのヒットナンバーを声優に歌わせる」っていうもので、これはちょっとグロいんじゃないか? って思った。

だいたい今アラサーくらいで、当時オタクだったら、ゼロ年代のJ-Popを「認知はしていたけど若干敬遠してた」くらいの距離感でふんわり聴いていたと思う。愛憎なかばしつつ。そのJ-Popを、アニメキャラの声で歌わせているんです。広告会社の人が。すると、「なんかあの頃を思い出すなあ」みたいな気分になる。そんなあの頃なんて存在しないのに……。記憶を書き変える。これって常識改変ものの同人誌と何が違うんだ。匿名的な思い出が捻じ曲げられてマネタイズされていく。ちょっと前に流行った『高木さん』でも似たようなことをしてた。


ところで、Twitterを見るのをやめてなにをしていたかというと、資格の勉強をしていたんです。スーパーバイザーとかいう、コールセンターの人向けのすごい簡単な資格です。簡単な資格だし、持っててもあんまり意味はないんですが、それに受かると会社から5万ちょいもらえるんです。あと受験料も出してもらえる。夏休みの間に参考書を通読して、ちゃんと合格しました。みんながTwitterをしている間に、自己研鑽に励んで5万円もらってる人間もいる。


■自我なし

結構な数の人が知ってると思うけど、伊藤計劃っていう人がいて、SFの小説を書いていた。『ハーモニー』っていう作品があって、そのオチでは人類の意識、というか自我がほぼ全部なくなるっていうすごいことになっている。これをはじめて読んだときは「嫌だな怖いな〜」って思った。でも今だと「自我がないって結構いいんじゃないか?」と思う。自我ってない方がいい。

ところで、自我がなくなった『ハーモニー』の小説は一人称で書かれている。でも、自我がない世界でなんで小説を一人称で書くんだ、とか、誰が読むんだみたいなことを結構いろんな人が言っている。それは確かにそうだなと思う。

だいたい、文章って1文字でも書こうとすると自我出ちゃうからあんまり書かないほうがいいと思う。でも、そういうことを言おうとすると、文章を書くしかなくなっちゃう。困ったことですね。なので、自我を極限まで排除しつつ文章を書く、というのが理想だと思っている。もしかしてこれってオピニオンなんですか?


この文章は読まないほうがいいらしいね。




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