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逆⇔中国大返し-その10-

船坂峠⇒沼城(亀山城)
次は宇喜多直家のかつての居城へ
約30kmの道のり 車で30分強、徒歩8時間半強
今更ながら徒歩より約17倍の速さで辿り着ける車ってやっぱり凄い
中国大返しから今日まで442年という年月が経過したが、人類の進化を実感する

と言いつつ、信長より30歳上回り、現代まで生息しているサメもまた凄い

沼城(亀山城)
秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、中国大返しを開始してから最初の休憩ポイント
宇喜多直家が14年間居城し、嫡男秀家にとっては生誕の地でもある重要な拠点だった
中国大返しの時は、直家は半年前にすでに他界、秀家は岡山城に移っており、城主は直家の弟、春家だった

宇喜多家
光秀が毛利家と手を組もうとして失敗したことは有名だが、どうやら宇喜多家も光秀に通じていた説もあるらしい
そのため宇喜多家重臣らが秀吉を討ち取るため沼城中に待機
勘づいた秀吉は、沼城に立ち寄らず宇喜多家勢力圏外に出るため一気に脱出 これが中国大返しの真相である、とかないとか

沼城の縄張り
湿地帯に浮かぶ島ような見事な平山城
飛地であった西の丸跡は現在浮田小学校となっている
謀略家の直家が健在だったなら秀吉も本当に危なかったかも
宇喜多家の秀吉暗殺未遂の可能性は低いにしろ、秀吉は追い討ちを警戒して一刻も早く姫路に戻ろうとしたのは間違いないと思う

\いま、ココ!/
本日7/16は、西暦で442年前、清洲会議が開催された日!
今回のシリーズ【逆⇔中国大返し】も 残すところあと1区間
中国大返しの真相に迫ってみて新たに浮上した宇喜多家の存在
いよいよクライマックス 乞うご期待

宇喜多家臣団
秀吉の中国攻めでは直家の弟、忠家が宇喜多家の総大将となり秀吉に協力
忠家は戦上手で小早川隆景を撃退する等大いに貢献している
宇喜多三家老の岡利勝、長船貞親は、年齢不明だが、三家老のもう1人戸川秀安と同じ世代かと思われる
ちなみに秀家はこの時10歳

蘇轍
忠家の活躍もあり当主の秀家は豊臣政権下で一門衆に昇格
さらに五大老まで取り立てられた
秀吉が中国攻めで宇喜多家の貢献をいかに大事にしていたか窺える
だが、紆余曲折あり秀家は八丈島で生涯を終えた
八丈島にある秀家の菩提寺には蘇轍が植えられておりその縁で現在沼城跡にも植えられている

ここにもあった秀家の墓
ちなみに以前、前田家下屋敷を紹介した時に登場した板橋区にある東光寺
境内には明治時代になってから宇喜多家の子孫が供養のために建立したという『秀家の墓』がある 
数奇な運命にあった宇喜多秀家 改めて深掘りしたいし、八丈島にも行ってみたい
だが、それはまた別の話


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