誰かの作品であふれた世界
気づけばnoteを始めて半年が過ぎていた。
寒い冬の日に始めたnote。
半年後の今は信じられないほどに暑く、暑いのが苦手な僕は毎日ヘトヘトだ。
noteを始めて良かったことがいくつかあるのだが、その中の一つに、
誰かの生み出した作品に対する見方が変わったということがある。
それは文章、写真、絵、音楽などに限らず、世の中にあふれている作り手の思いが込められたものすべてに関して言える。
僕はnoteを始めるまで、自分の思いを“作品”という形でアウトプットしたことはほとんどなかった。
僕のnoteが“作品”と言えるのかはあやしいものだが、記事を書くようになってから、今までよりはるかに自分の思いや、考えていることと向き合う機会が多くなった。
そんな風にして日々記事を書き続けるうちに、
だんだんと他の誰かが生み出した“作品”や、そこに込められた思いが気になるようになった。以前よりそれらに目(心かも)が向くようになったのだ。
世の中にあるもの、
例えば通勤時に触れるもので言えば、
電車の車内広告や、発車ベルをはじめとした様々な効果音、乗り合わせた人の衣服や持ち物、スマホで見るインターネット上にある無数のことば。
それらひとつひとつを誰かの生み出した“作品”と捉えるのなら、
僕らの身の回りは数え切れないほどの誰かの“作品”であふれている。
僕がそれらのものから日々、何かしらの刺激を今までよりも敏感に感じることができるようになったのは、noteで記事を書き続けることにより得た副産物だと言える。
おかげさまで、始める前よりも僕の世界ははるかに広がったような気がする。
noteに感謝しなければ。
そしてnoteでも、日々みなさんの”作品”に触れることが楽しみでならないのだ。
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