消化時間vs勉強時間
私が思うに、今まで勉強をして来なかった人に時間を無限に与えても、勉強時間に使えない。ソースは私だ。小学校から記憶を辿って今に至るまで、勉強時間があまり増えていないのは何故だろう?と自問自答してみる。
中学、高校、大学の時、私は時間を金に変えて娯楽と友人との時間を買っていた。多分それは満足感を買っていたのだ。
社会人の時、私は時間を主人との対話に使った。子との対話に使った。食事に使った。全て満足感のためだ。職を辞した時、この時間が消え続けたことに由来していた。
満足感、ひいては幸福感とも言えそうだけど、一時的な満足感が継続しないからこのように時間を消費している訳で、たぶん幸福感とは別物なのだと直感している。
思うに、学生にせよ社会人にせよ勉強時間を確保する場合、一定の満足感及び幸福感が必要なのだろう。しかも負の感情を帳消しにするには更なる満足感が必要で、いつもいつも赤字になってはしんどくなってしまう。
そういう意味で、人が好きなら同棲という形は満足感を短時間で摂取でき、非常に消化にかかる時間を短縮できる。逆に考えると、単身かつ孤独である場合は満足感を集める労力がかかり、勉強時間を圧迫しそうである。学生や老体の場合は、終わりの時間が迫っているため、可処分時間が減りそうだ。そういう意味では、やはり勉強時間の確保に老若男女の貴賎なく、勉強時間を娯楽とするメンタルが必要不可欠という、いにしえの情熱論みたいになってしまった。
こう思うのも、無職になって負の感情を少なくすることで消化する時間を減らしたこと、可処分時間を増やしたことで、明らかに勉強時間を増やせたからだろう。
感謝と共に、誰かの役に立つことを願う。
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