僕だからって理由でいてくれる人が欲しい 人が人を好きになる時って、いいところの数とか嫌なとこの少なさで決まるのではないのと同じように 絶対とか特別が欲しいんだと思う ある人にある質問をされた時に僕はこう答えた 過去にも似たような事を何度か言った覚えがある その時その時本心で言ったつもりだし、今でもその気持ちに偽りはない でもこの考えはもしかしたら間違っているんじゃないか 前回のnoteにこう書いた 生きてるだけでいいとか、そこにいるだけでいいとか それはどうでもいいのと同じ
取り敢えず準備は終わったよ もう何もする事が無くなってしまった 当たり前だと思っていたものが一瞬で無くなった 結局僕はなにも残せなかった 生きてるだけでいいとか そこにいるだけでいいとか そんなものはどうでもいいのと同じだ それを僕は最近まで分からなかった そこにいる事 生きている事 それにどれだけ向き合えるか 簡単にまとめてしまうのはとても虚しい 僕は人が好きだ こわいけど、苦しいけど、好きだ それでもこうなってしまうのは、誰のせいでも無い 僕のせいだ 色んなまやかしで周り
こうして文字を綴って形にすると、心の中にある大事なものが僕の拙い文章で汚されていく でも、そうしないと、こうしている今も少しずつそれらが押し出されていなくなっていく とても大事なものなのに 僕にしか分からないかけがえのないもの 15年、あまりにも長すぎる時間 受け止めきれないよ 受け止めたくないよ どうしたらいい もう教えてももらえない せめて今は全てありがとうに込めるよ ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう
子供の頃によく言われていた 「それは理想論」 「綺麗事」 そう言われるたびに自分そのものを否定されたような気持ちになったのを覚えている。 綺麗事を貫き通す これはいつかの僕が自分なりに出した答え。 それが綺麗事でしかなかったとしても、いつかその先に僕が求めてた景色が見えるはず。 でも身体を壊し年月を重ねるごとに難しくなっていった。 なりたくない自分、見たくない自分。 死なないためにはそれを受け入れていくしかなかった。 そんな姿になるまでに、どれだけの時間をかけて
優しさは何よりも強い。 ずっとそう思って生きてきた。 優しい人であり続けたいと思ってきたし、今でもその気持ちに変わりはない。 人と接していると、僕の事を優しいと言ってくれる人もいるけど、そうありたいと思ってしている事に対してそう言われるのは、本当に優しい事になっているのかな? 優しいっていったいなんなんだろう。 身体を壊し、理不尽と向き合い続けながら生きていると、少しずつ孤独の闇に吸い込まれていく。 理不尽とは孤独。 僕が見てきた世界のひとつの答え。 理不尽に押しつぶされ
あれは、僕がまだ身体を壊す前…入院している祖父の病院に、母親とお見舞いに行った時の事 (前回の続き) 病室に入る僕を迎える祖父の姿は、僕が知っている姿とは違った。 優しくて、いつもひょうひょうとしていて、冗談ばっかり言っていた祖父。 お正月や夏休みに遊びに行くと、いつも笑顔で迎えてくれた。 昔から糖尿病を患っていて、決して健康とは言えない身体なのに、そんな事全く気にもとめていないかのように、いつも美味しそうにビールを飲んでいたのを覚えている。 どうしようも無いところ
雨が嫌いだ。 雨が降る前は、まず身体が反応する。 身体の中に不純物が流れ込んでくる感覚。 何度味わっても苦痛でしかない。 雨の音が、僕の精神に追い討ちをかける。 どれだけ望んだところで、自分の意思で天気を操る事なんか出来ない。 それとリンクして痛みを感じる身体。 この身体は一体誰のものなんだろう。 そんな思いが脳裏をよぎる。 昔は雨が嫌いではなかった。 雨には雨の良さがあるのを感じる事が出来る余裕があったのだろう。 特に、雨が止んだ後の外の空気は、嫌なものまで全部流
ギターを弾きたい 高校の頃、ギター部に入っていた。 特に興味があったわけでもなく、ただ友達に誘われたからという、ありきたりな理由で入部した。 といっても、当時のギター部は壊滅的で、部員は3年生の先輩が1人だけ。部室もきちんとした部屋ではなく、縦長の狭い物置き場みたいな所で、その半分のスペースに棚が置かれていて、ギターやその他の道具が敷き詰められていた。 残り半分のスペースが必然的に活動スペースになるわけだけど、とにかく狭い。 縦長のスペースに椅子と譜面台を数人分横に並
ウォーキングが日課のシロ。 もうこれは1 0年以上続けていて、はじめの頃はほとんどよちよち歩きで、元気なおじいちゃん、おばあちゃんに抜かれながら歩いていた。 体調の悪い時は、意識が飛びそうになるのを耐えながら、ふらふらになりながら。運動というよりは、一歩一歩、その日の身体の動きを確認しながら歩く。 あまり長い時間歩く事も出来ないし、歩き終わった後は反動で激痛が待っている。はじめの頃は、歩き終わって寝転んだ後、しばらく立つ事が出来なかった。 だからといって、寝転んでいる
寝転んでゴロゴロとかしたい 椅子にまともに座る事の出来ない(元気になったらしたい事4)僕は、寝転んでいる時間が1番長い。 でも、それは決して楽だからではないんだ。 常に痛みが伴っているので、力を抜く事が出来ない。1番酷かった時は、呼吸の動きに合わせて痛みが走って、気を失わないようにするのがやっとだった。 あの時どうやって乗り切ったのか…思い出すと気持ちが落ちてしまうので、いつかまた改めて書こう。 今は少しは痛みがマシになったけど、ちょっといつもと違う事をしたり、運動
車に乗りたい まともに座る事の出来ない僕は、車に乗る事も出来ない。 これには2つの意味がある。一つは運転出来ないという意味。そしてもう一つは、助手席や後部座席に座って、誰かに乗せてもらう事も出来ないという意味。 座れないという事は、当然運転なんて出来ない。身体を壊してすぐの時は無理やり乗っていたけど、その間常に痛みが伴っているし、もし事故などを起こして、他の人に迷惑をかけたりしたら取り返しのつかない事になるのでやめた。 僕の身体は、動かそうと思えば動かす事は出来るし、
椅子に座ってぼーっととかしたい 僕はまともに座る事が出来ない。 それは椅子にだけではなく、ソファーや床なども含めて。 “座る”行為そのものが僕にとって大きな負担になる。 座る事が出来ないと、本当に大変なんだ。健康な人はそんな事想像した事すらないかもしれないけど、“生活”の中のありとあらゆるところに“座る”は存在する。 だから“まともに座る事が出来ない”からといってそれを諦めてしまうと、生活のほとんどの事を諦めてしまう事になる。 だからどうしても座る必要がある時だけ
閾値という言葉を知ったのは、僕が整体の専門学生だった頃。 人が刺激(痛み)を感じる最小限の値を閾値(いきち、しきいち)といい、それは人によってそれぞれ違う事を教わった。 痛みを感じやすい人を“閾値が低い”、感じにくい人を“閾値が高い”といい、僕はどうやら閾値が低い部類に入るらしい。 この言葉を知るまでも、人によってそれぞれ痛みの感じやすさが違う事は分かっていた。むしろ、当然の事すぎて、それを意識する事すらしていなかった。人が酸素を吸って生きているのを、わざわざ意識してい
筋トレとかしたい 今までも身体の事を書いてきたけど、長時間座る事も出来ない僕は、もちろん思うように筋トレなんか出来ない。 リハビリは毎日やっているし、そのひとつひとつは“トレーニング ”に繋がっているけど、いわゆる“筋トレ”には程遠い。(いつもどんな事をしているかはまたいつか書きます) 昔は結構やっていたんだよ。高校の時は特に頑張ってたかな。 腕立て100回、片手で50回ずつ、指立て、甲たて、拳たて。腹筋もダンベルを首の下に抱えて300回位やったり…他にも色々、運動部
身体を気にせずご飯を食べたい僕はご飯を食べるのが早い。 だいたい毎回10分もかからず食べ終わる。早い時は5分とか。 元々子供の頃から早い方だったけど、ここまで早くはなかった。 これだけ早くなったきっかけはこれ。 一見、身体を壊して何故食べるのが早くなるの?と思うかもしれないけど、早く食べられるようになったのではなく、早く食べざるを得なくなったんだ。 前回の時(元気になったらしたい事1)にも書いたけど、身体を壊して以来、長時間椅子に座る事が出来なくなってしまった。
自由に本を読みたい本を読み始めたのは、学生時代、通学の時に読むようになってから。 それまで苦痛でしかなかった通学時間が、本と出会ってからは楽しみの一つに変わった。 本を読む時は電車の揺れる音がよく合う。 読むのに集中しすぎて乗り過ごしそうになった事も何回もあったな。 電車で読む為に買ったのに、続きが気になりすぎて、結局家帰ってから読み続けて寝る時間遅くなってしまったりとか。 学校の帰りに本屋さんに行って、面白そうな本を探すのが大好きだった。 まずは表紙と裏表紙を見