詩誌「光」企画①ヤリタミサコ〜本文

抽象ということ――北園克衛とWOLSと岡上淑子   ヤリタミサコ

〇北園とWOLS
北園克衛のプラスティックポエムに対して、当時発表された詩誌VOUの同人たちは、自分たちがリスペクトする北園のインスピレーションの源について探ったりはしていない。VOU同人のプロカメラマンらの写真技術に影響を受けたことは周知の事実ではあるし、実際に同人たちが北園の写真焼き付け協力などしている。だから北園本人は「鵞鳥の羽根ではじまった詩の歴史は,ボールペンでおわるべきである.そして,現代の詩人がボールペンのつぎにどのような表現の道具を選ぶかによって,詩の運命は滅亡するか,未来に向かって新しい発展の機会をとらえるかのわかれ道にきている.(略)私は私のカメラのファインダーのなかで,1握りの紙屑やボール紙やガラスの切れ端によって,ポエジーを演出する.それがプラスティック・ポエムの誕生である」と1966年のVOU105号で宣言している。【拙文では詩誌VOUからの引用と記載するが、再録である『北園克衛とVOU』北園克衛とVOU刊行会、1988年から引用とする】
 しかし独自の美学であるとはいえ、ゼロから発想したわけではないだろう。図書館勤務であり紀伊国屋書店の月報を編集していた北園は、海外の雑誌などを目にする機会の多かったはずだし、「主観主義写真」という美学はどこかで目にしたことがあるのではないか?当時の有名写真家、マン・レイ、スティーグリッツ、ブラッサイ、カルティエ=ブレッソンらの写真と北園の美学はまったく違っていて(強いて言うと、スティーグリッツには静物画的な作品はあるが)、何かを知らせようとしたり動きのある場面を鋭く切り取るような写真を、北園は意図的に避けたはずだ。マン・レイは別として、この時代の写真は記録性・ドキュメンタリー性が強く(写真は瞬時に静止画を固定できるのだから、その機能性を最も有効に使用すると当然そうなる)、北園のような、客観的記録とは正反対の、主観的美学を貫いた写真や絵画はあまり見かけない。
一方、日本の「もの派」ともどこか共振するところもある、と私は感じていた。ただ、「もの派」は1960年代末から活動し70年に「もの派」宣言が発表されたという時間的な流れから言うと、北園は「もの派」より前から独特の写真を発表していた(1956年から始まり1960年には多数発表されていた)ので、自分の美学を追及する過程で、ちらりと「もの派」の作品も見えていたかもしれない、という程度であろう。
ひるがえって写真以外を見てみると、岡上淑子(1928年生まれ、1950年から65年頃まで瀧口修造の支持を得て作品発表していたが、35年ほどのブランクがありその後再評価されている)というコラージュのアーティストは、海外のグラフ雑誌やファッション誌の部分を使ってシュルレアリスムの美学に影響を受けた作品を作っている。モトの雑誌に掲載されている写真をカットアップしてコラージュするのだが、完成後の具体的イメージに向かって素材を切り貼りするというよりは、素材と対話しながら臨機応変にカットアップしていると思われる。
ならば、北園も岡上以上に海外の雑誌を目にする機会があったはずだ。だとしたら、北園が自分の美学を具体化するための刺激となった写真か絵画はないのか?映画なのか、版画なのか?記録性抜きに、単純にモノが放置されているような画像はないのか?
このような私の問題意識に対して、カツンと手ごたえを感じる展示があった。2017年川村美術館で展示されたWOLS(ヴォルス)(本名:アルフレート=オットー=ヴォルフガング・シュルツ、1913-51)の作品は、北園が一度は目に止めたと推測できる。ヴォルスの作品では、その当時には極めて珍しい写真の対象として、パンであるとか、人間の手足とか<W1とK1>、反射<W2とK2>、などが切り取られている。特に、バゲットの扱いは北園に強い印象を残したに違いない。それまでの報道写真や肖像写真とは違う視点、つまり記録性客観性から完璧に離れ、芸術としての静物画に近い写真。ペンをカメラに持ち換えるのが北園だとしたら、それよりも前に、ヴォルスはカメラも絵筆も同じように使用していた。
 マン・レイとその信奉者を除けば、演出写真はその当時それほど多くはなかった。が、ヴォルスの写真では、バゲットに新聞紙を着せてヒトの形を連想させたり、地面と人の形<W3とK3>、といった日常的卑近な素材にほとんど手を加えずに写していたり、何よりも写真そのものの画面が何かを伝達してない点で、北園に共通する。ヴォルスと北園は、後述する「抽象」である。
 

〇北園のプラスティックポエム
 1966年VOU105号で北園は「造形詩についてのノート」というエッセイを掲載している。その冒頭には、ミッシェル・ラゴン「話し言葉の時代が去り文字の時代がおわって,いまやわれわれは映像の時代にまで到達した」、中原実「大衆が半信半疑の時代以前にすべてのヌーボーは輝いているのである」と前置きの言葉が置かれている。これに続いて冒頭に引用した「鵞鳥の羽根で始まった・・・」から「これがプラスティック・ポエムの誕生である」と説明される。その内容を、以下箇条書きで部分引用する。

・カメラは失敗した1握りの紙屑からも美しい詩をとりだすことができる
・言語は人間がてんでんばらばらにつくりだした,最も不正確な伝達の記号である
・詩人の創造物である詩が,禅や哲学のような骨董的な精神構造のためにあるなどという考えは,全くナンセンスである
・プラスティック・ポエムは,ラインやスタンザを必要としない詩そのものの形態であり,リズムや意味を必要としない「詩のための装置」である
・未来派,ダダ,立体派の水源から流れてきた実験詩の流れは,コンクリート・ポエムというちいさな水溜りをあちらこちらにつくっているが,それはやがて消えてしまうつかの間のきらめきを私に思わせる

 言語で詩を書くことの限界、各国語であるローカリティ、意味、見え方、リズム、呼吸、スタイル、音楽性、難解な読解などを一挙に超越するグローバルかつ普遍的な詩の発生装置が、プラスティック・ポエムなのだろう。ちなみに、私自身はプラスティック・ポエムは「可塑的な詩」だと理解している。見る人によってどのようにも見える可塑性を特性とした、詩のカタチだと考えている。
 もうひとつ、北園のエッセイ「essay a mcluhan-style」(「メディアはメッセージである」という言葉で有名なマクルーハンのメディア論から刺激を受けてのエッセイなのか、と推測される)から引用する。以下、VOU118号、1969年より。
・カメラで詩を作るというアイデアは,VOUがはじめて発見した詩の方法であり,詩の技術である
・100年のながい間,カメラは黒い機械でしかなかった.それは単に記録する鏡にすぎなかった.だがVOUのカメラポエットたちはその四角な機械を「思考するカメラ」にかえようとしているのである
・詩はいつか,人々の鼻の先でしゃべることをしなくなる時代がくるにちがいない.Plastic Poemというのはそういう時代のために作られる詩のことかもしれない.それはそれを見る人びとの頭のなかでしか喋らない光と影のミステリーである
※なお、このエッセイ中には、シュタイネルト、エルンスト・ハース、アーロン・シスキンドらの写真家の名前が挙げられている。

 ここで考えたいのは、北園がなぜ「見る人びとの頭のなかでしか喋らない光と影のミステリー」というスタイルを目指したのか、ということだ。海外の詩人たちからもリスペクトされた北園は、意味の伝達に拘束されない詩を作成する動機がもっとも大きいだろう。ストレートに外国人に直感で伝わる詩。と同時に戦中に特高から取り調べを受け、交流のある詩人たちが拘留され、自分自身も戦争協力作品を書かざるを得なかった経験から、北園は旧来の言語詩に対して、ルサンチマンの混じるネガティブな思いがあったのではないだろうか。
 戦中に「敵性言語」として英仏語などが禁止された歴史的事実は重い。しかしこれは法的根拠に基づいて実行されたものではなく、報道機関や出版機関による自主的検閲であり、「非国民」を排除する民衆の同調圧力によるものだ。1941年に、普通選挙権と引き換えに成立した治安維持法(男性成人男子がすべて選挙権を行使すると、それまでの高所得者が考える政治ではなく無産階級らの共産主義者が入り込んでくる恐れから、アメとムチのムチとして成立した)とその後の改悪により、北園やシュルレアリスト、アヴァンギャルドと呼ばれる文学者たちは、予防的に検挙・弾圧された。「横浜事件」では60人逮捕4人獄死、「神戸詩人クラブ事件」では20人逮捕2人実刑判決、瀧口修造と福沢一郎の逮捕などが積み重なり、北園は自分たちの同人誌名称を「VOU」から「新技術」に変更し、愛国詞華集『大東亜』などに戦争詩・愛国詩を発表する。
 以上の状況については、ジョン・ソルト『北園克衛の詩と詩学』(思潮社2010年)の中に詳しい。ソルトはマサオ・ミヨシの論考を引用して「アジア・太平洋戦争に突入すると、反戦運動はあっさりと制圧されてしまい、(略)沈黙を守ることで受け身的な非協力を続けた書き手もいたし、積極的に協力した書き手もいた。ほとんどすべての書き手が少なくとも黙認したわけだから、罪のない者はいない。しかし誰一人として完全に有罪というわけでもない。それは全員が強制されたからだ。このように有罪と無罪の入り混じる灰色状態では、個々人の輪郭はぼやけてしまって国家の全体性の背景に溶け込んでしまう」と。治安維持法を振りかざして特高が踏み込み、対象者に加えて家族や友人たちも予防拘禁するなど、反国家思想(と特高が決めつけたもの)が徹底的に弾圧された時代。明治政府以来の皇国史観を教育されてきた国民が、国家権力に抵抗できなかったのは無理もないというのが、ソルトやミヨシの見方だ。ただしソルトはこう書いている。「克衛の戦争協力は、ハイデガーやヘッセなど、ナチス・ドイツに協力した作家たちほどの犯罪的行為ではなかったと言える。だが、克衛の戦後の西洋主義への再転向が痛みを伴わず、抜け抜けと行われたことは認識しておかなければならない。克衛は戦時中の行動と書きものを隠そうとさえした」と、指摘している。
 ここで連想されるのは、藤田嗣治だ。戦争協力画家として非難を浴びた藤田は、戦争礼賛ではなく、自分の技術を生かす題材を時流に応じて世に送り出しただけだった、というスタンスだろう。事実「アッツ島玉砕」はヒューマニズムがテーマだと思えるほどである。
 つまり、戦後の北園がカメラによる詩によって目指したのは、イデオロギーに囚われず、意味を利用されず、誰かの役に立つとか、誰かを監獄に送るとか、といった現実のしがらみから可能な限り離れることを目指したのだろう。どこまで言語の限界から離れて自由にポエジーを製作できるか、という実験。戦後の藤田がカトリックの宗教画や子供の絵を多く描いたのと、北園克衛のプラスティックポエムは、ともに、意図的誤読される危険を回避したのかもしれない。その結果、北園は具象ではなく抽象アートとしての「詩」を作ることになったのだろうか。


〇岡上淑子との共通性と抽象というもの
 岡上の作品は、コラージュという特性ゆえに初期は禁欲的に見える。すでにできあがっている写真を切り取って再構成する以上、オリジナルな発想と言うよりは、見たものから何かを感じ取り、それを自分の想像世界内で動かして独自の世界を作り上げる行為だから、最初の一手は受け身からスタートする。しかし作品数が増えてくると、だんだんとのびやかに自由に空間や時間を行き来し、ストーリー性、美意識、女性性の主張などが現れてくる。これらは、おそらく着せ替え人形遊びとかドールハウスのような女の子遊びに近い想像力の駆使だと思われる。何もない白い紙に絵を描くのではなく、紙や布の洋服を着替えさせたり、小さいサイズの家具や道具を置き換えて楽しむ遊びとコラージュは、既製品を使用する点で共通する。ただ既製品と言っても、ジャンル違いや種類違い・空間違いなど意図的に異種をぶつけて予期せぬ驚きを発生させるのは、シュルレアリスムの手法である。瀧口修造の支持を得て、シュルレアリスムの美学を学び、マックス・エルンストらの手法も参照しつつ、自分が楽しんでコラージュする岡上は独自の進化を遂げた。
 岡上の心象風景の原点は、東京大空襲で焼け野原になった渋谷の町の廃墟だと言われている。そのため、作品の多くは、荒涼とした風景を背景としている。いくつか挙げると、落下傘と軍用ヘリコプターが飛ぶ戦時中の町に、巨大な女性の腰から下の脚が仁王立ちしている<岡上①>とか、津波に飲み込まれゆくビルディングの間で大きくキックする女性の姿<岡上②>、など、女性の生命力が横溢している作品が少なくない。私は、このおおらかさ、のびやかさは、ゼロから自分で描かないからこそ得られたのだろうと考える。単なるファッション写真であっても、アクティブな女性のポーズから作者は自分の生命力を刺戟されて、それが画面に立ち上がっていく。機械頭の男性を足蹴りにする複数の女性の美しい脚力作品<岡上③>などは、もしかしたら岡上自身の願望かもしれない。もちろん、日常生活レベルでは男女平等の建前と現実とのギャップは大きかったはずだが、岡上のモノクロコラージュ作品は、廃墟と生命力のダイナミックなバランスで、時代を超えた独自の美を獲得している。
同時代の北園による「カメラによる詩」であるプラスティックポエムとは、素材は近いものがある。外国語新聞や外国の雑誌などから切り取ったイメージからスタートしていることなど。岡上の展開はシュルレアリスム的な夢想連想の断続によるが、北園は非日常を構成する。二人が外国語の新聞や雑誌を使用した意図は、現実世界から切り離された空間を目指しているからだ。日本人の手足ではなく、大理石のギリシア彫刻のような姿形が現実の畳の部屋から一挙にフィクションへ誘い、文字の意味を採取できない外国文字の紙面により、文字はリズミカルで規則的な装飾模様になりうる。北園が使用するバゲット、糸、ひも、石、針金などの小道具は、人間が意味を持たせにくい素材、つまり具象でありながらカメラの中では自動的に抽象になれる素材。岡上の人間とそれ以外の物象の大きさの強烈なアンバランスは、人も建築も抽象的存在に見せている。
岡崎乾二郎は抽象芸術を「作品が外部世界に対応する視覚的参照物を持たないこと、つまり作品が外在する対象の姿を映していないこと」(岡崎乾二郎『抽象の力』亜紀書房、2018年)という。ピカソのように現実のモデルを独自の方法論で描いたものは抽象ではなく、ありえない人間の姿を廃墟の上に立たせる岡上、針金と小石と新聞紙で何ものも意味しない北園、この二人の作品は抽象である。何かを模さず、再現せず、イマジネーションの世界での軽やかで奔放な遊びである。北園・ヴォルス・岡上作品は、時代を超えた抽象の域に達している。

<参考文献>
北園克衛とVOU刊行会『北園克衛とVOU』非売品、1988年
岡崎乾二郎『抽象の力』亜紀書房、2018年

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