詩誌「光」荒木田 慧
「つばめと私」
「そんなことはね」
とつばめが言った
「到底ゆるされるようなことではないよ」
私はつばめにゆるされたいと思った
それからふと
だれにもゆるされる必要なんてないのじゃない、と思い直して
「でも」
と言いかけたその瞬間
つばめは細いミミズをスパゲティみたいに嘴にくわえ
四月に飛んで行ってしまったので
私はまた
ゆるされたいと思ってしまった
「小泉進次郎の選挙カーに轢かれて死にたい」
わたしのいかれた頭には
政治やなんかはわからない
わたしはなんの信条や
イデオロギーももたないが
そんなわたしにも
これだけはわかる
小泉進次郎はいい男
かれの主張や政策は
わたし なにも知らないが
もし死ぬなら
もし車に轢かれて死ぬなら
もし選挙カーに轢かれて死ぬなら
わたしは
小泉進次郎の選挙カーに轢かれて死にたい
つまんない駅前の
交差点のまんなかで
あたたかい春の火曜日の
間のぬけたような真昼間に
「浴場の女たち」
公衆浴場の湯の中で
わたしはみる
見ず知らずの女たちの裸を
若い女の猫背
また別の若い女の平背
そこから伸びるほそい頸
濡れた黒髪のまとわりつく
上気する頰
まどろむふたつの瞳
なにか言いたげにゆるむ
うるんだ唇
端がピンク色した耳は
反響する水音をひろう
経産婦たちの
どこか喪失感のある胎や
老婆のあきらめきったような乳と倦怠
少女たちだけが持つ
子鹿のようにしなる背骨と皮膚
どの女もどの女も
どれほど肉がたるんでいようと
ひとつくらいはどこか美しく
幾つであろうと
どことなくコケティッシュで
女であるかぎり
蠱惑の色は失われていない
この
ますます高度に
個人情報が管理されようとしている
この 現代にあって
言葉を交わしたこともない彼女らの
乳のかたちや 腹のゆるみを知っている
わたし というものの存在は
とても不自然で
前時代的なもののように感じる
(理想と現実のあいだに横たわる
解消しようのないひずみのような)
小さな女の子が
小さな男の子のきょうだいを連れて
わたしの横へ来る
裸の女たちのあいだに突如乱入する
ちいさな未発達の異性に
少しぎょっとしてしまい
わたしは自らの母性をゆり起し
それを納得させる
湯を跳ね散らかせて嬌声をあげるかれらを
わたしは湯気越しに目を細めてみるが
やがて祖母らしき女がやってきて
たしなめるようにふたりを回収していった
ちいさな彼のなかに
このようにして
女性 というものの
原風景が
きざまれてゆくのかもしれないと
湯に肩をうずめ
ぼんやり思う
幼いころに
母や祖母に連れられ
女湯にはいったことのある男と
女湯にはいったことのない男
この二者では
女
というものに対するおおらかさが
全く異なるような気がするのだが
この二者の人生を追跡調査した
学術論文みたいなの
どこかにないかしら
もしあれば
わたしはそれを
ぜひ読みたい
そんなつまらないことを考えているうち
わたしの皮膚はふやけ
筋肉はゆるみ
ようやく熱は髄まで到達
わたしは自らを湯切りし
茹でたての身体を
服で包もうとするが
着てきた服など
すでに似合わなくなっている
入り口を出たところで
高校生くらいの若い雄が振り返り
追尾弾のような流し目をおくってきたので
わたしはその見境のなさに辟易しつつ
やれやれとそれにこたえ
軽い疲労のもどりつつある身体を
揺すり揺すり
せっけんの匂いをふりまきながら
あるいて家へと帰りました
「夕立」
書かなきゃと
思ったら
ぜんぜん書けなくなったので
ペンとノートと財布をもって
夕方
ケンタッキーフライドチキンへ行った
歩いて行けるところにある
たぶんほとんど唯一の
ゆっくりなにかできる場所
夕立が来そうだったから
白いビニール傘もって
客、ほかに誰もいなくて
腹なんか空いてないのに
チキン2個とポテトのセット
勢いで頼んじゃって
もう全然、うまくない
席についたらすぐ
大粒の雨がふりはじめて
なんかズルしたような
気持ちになった
(打たれなきゃいけなかったのに)
中学2年か3年の夏休みの
最後のほう
同じ吹奏楽部の
フルートパートの
ピッコロの上手な女の子と
ふたりでここに来て
同じような席に
たしか長いこと居座って
夏休みの宿題のワークブックに
解答の冊子から
ズルして
答えを丸写しした
小学生のときは
夏休みがはじまる前に
宿題ぜんぶ終わらせて
夏休み、遊びまくる
そういうタイプの子供だったけど
中学生になったら
いつのまにか
夏休みの宿題なんか
とっくに私の手に負えなくなってた
私のあとから
ブラジル人ぽい
若い夫婦が
小さな赤ちゃんを連れて入って来て
すこし離れた
ななめ向かいの
席に座った
愛がうちがわから
はじけそうな赤ちゃんと
その子をうんだ
豊穣の象徴みたいな母親と
その子を抱く
美しい動物みたいな父親
(ああ
好きな男の子供をうみたいと
思えるような女ならよかったな)
キャッキャと声をあげる赤ちゃんと
それを優しくたしなめながら
こちらの様子を伺う
黒豹みたいな父親に
私は
うるさくなんかないですよ、と
顔に書いてみせた
ペプシコーラのLサイズ
追加注文しても
詩なんかほとんど書けなくて
品のある獣みたいな父親が
私の目の前にあるゴミ箱に
3人分のトレイを下げに来て
バスケットやら
氷の残ったペーパーカップやらを
バタンバタンやりながら
目が合った私に
彼は
バイバイ、
と言った
さみしい、と思った
(ここに来なければ
この席に座らなければ
彼らに会わなければ
父親に
バイバイ、なんて
言われなければ
そんなこと
思わずに済んだのかもしれない)
一緒に宿題を写したあの子
ピッコロの上手かったあの子は
もうとっくにお母さんで
何人もの子供たちのお母さんで
私はまだ
この店に座っている
ひとりで
夏休みの宿題
写し終わらなくて
答えなんて
どこにもなくて
白い格子に区切られた
大きな窓の外では
夕立はもう
ほとんどやんでいて
やっぱり私は
ズルをしたような気がして
(打たれなきゃいけなかったのに)
ぽつぽつとしか
もう落ちて来ない雨に
それでも傘をさしてしまう
覚悟のない私は
誰といてもさみしくなるなら
ずっとひとりでいようと思った
「イミテーション・マンデイ」
午後、全然知らない街で
執拗にぐずる男の子を
辛抱強くなだめすかし
大学まで手を引いて
彼を校舎に押し込んだあと
授業の済む16時半までの数時間
駅前まで歩くその道
通行人たちは皆どうも演技じみていて
私は首を傾げる
与えられたロールを
盲目的にこなす彼ら
安心と満足が手を繋いで
足取りも軽く12月へ向かう
曇天
彼らのきれいに切りそろえられた襟足と
清潔な外套を見送り
(駅前百貨店のショーウィンドウに
帰るのだとしても不思議ではない)
その不自然に伸びやかな硬さに
憧れと不信感を覚える
私の伸びかけの前髪や
くたびれた皮膚や
姉の犬の毛の付いたストールの
獣みたいな匂いを恥じて
ごつごつと肥大した
この関節の醜さに
どうか彼らが気づきませんようにと
ハンバーガーショップのテーブルに
手を組み肘をついて祈る
口に入りきらないほどの何かの塊を
咀嚼して嚥下して勝利し
指先まで散々舐めてやっと
欲しいのはこれじゃなかったと気づいた
16時
角の喫茶店で
いちばん大きいコーヒーを免罪符に
うたた寝
胸の小さな痣の必然性のなさを
わりと好ましく思ったりしながら
視認性のわるい
あと少しの今日を歩いて
ポケットからいつのまにか
なくなったリップクリーム
探しているうちにきっと
この冬も終わるだろうと
思った
荒木田慧
1983年、群馬県伊勢崎市生まれ。2018年からインスタグラム上で詩を書き始める。詩集「生活の記録」を発行。note:keiarakirda