詩誌「光」一色 真理
「闇から闇へ」
一行終わるたびに
黒い小さな゜を打ちました
祈るように
どうか
よく見てください
ひとつひとつ
それはどれも
死んだ子の
顔ではありませんか?
終わりの連の
最後の行にある「。」
──それは
あの子になる前の
「あの子」の
顔ではありませんか?
(ぼく、いない方がいい?)
まだ
目鼻のない
小さな「あの子」を
わたしは
消しゴムで
消しました。
「てのひらの花」
五つの花弁を持つてのひらが
ふるさとの小さな河のほとりに
遠い記憶のように群がり咲いていた
風が吹くと
長い腕が星明りのもと
何かを虚空に求めて
あるいは誰かをいざなって
ひとしきり激しくそよいだ
気がつくと
ぐっしょりと汗に濡れたシーツの上で
右手のこぶしを握り締めたまま
ぼくは眠り込んでいたのだ
お母さん
あなたのぼくを抱いた手も
ひと茎の花として
いつか
お父さんの前であんなに鮮やかに
咲いていたのでしょうか?
「うぶすな」
参道を埋め尽くすように、黄金の落ち葉が散り敷いていた。
見上げると瞼をきつくつむったまま、裸の大イチョウがそびえている。
イチョウがまだ若くて美しかったとき、
ぼくはこの道を一度だけ通ったことがある。
逆子だったぼくはなかなか通り抜けられなかったけれど。
母を相手にこの世に生まれてくるかどうかをめぐり、
一昼夜かけてここで血みどろの闘いを続けたのだ。
産道は息が詰まるほど狭くて、暗かった。
むっとする血の匂いに満たされていた。
*
母と産土神社に参詣する朝、地面はいつもたくさんの暗号でいっぱいだった。
参道に積もった黄金色の落ち葉を見ると、ぼくは必ず吐き気に襲われる。
母はきつくぼくの手を握り、立ち止まろうとするぼくを急き立てた。
ぼくに読ませたくなかったのだ。
落ち葉の下にはきっと「し」という文字が埋もれているから。
ぼくが産まれる前、母は父といっしょに
一本だけ抜け落ちた陰毛のような文字を書き、そしてぼくに隠したのだ。
──裸の大イチョウはその日も、血の匂いに満ちていましたね。
*
お母さん、ぼくはもう、平仮名も漢字も、
外国の文字だって読めるようになりました。
誰にも見えない文字でさえ、目をつむれば全部読めるのです。
だからもう、ぼくに何かを隠すのはやめてください。
*
死んだ母の小さな裸をぼくが見つけたとき、
廊下は狭くて寒く、真っ暗で、大イチョウの下と同じ匂いがした。
三日三晩、痙攣するように母は吐き続けたのだろう。
母はここを通り抜けたくなかったから
たった独りで、血みどろの闘いを続けたのだ。
*
詩人が言葉を吐き続けるのには理由がある。
その下にある文字を誰にも読ませたくないから。
そこにはとても恥ずかしい、ぼくの「し」が書かれているからだ。
お母さん、あなたはこの文字を読ませたくなかったのに、
なぜぼくに大鳥居をくぐらせたのですか?
一昼夜かけて、ぼくと血みどろの闘いをくりひろげたのですか?
*
産土の大イチョウは満ち足りたように瞼をつむったまま、
もう一枚の言葉も降らせない。
ぼくと母は父に隠れ、三日三晩かけてようやく今、
二人だけの「し」を書き終わったところだから。
「抜け殻」
あたしとキスして、やっと分かったのね。そうよ。あなたはぺらぺらの抜け殻なの。本物のあなたは昨日、あなたの薄汚れた殻を脱ぎ、大好きなおかあさまと手をつないで、どこかへ行ってしまったわ。
蛇のように子供は何度も殻を脱いでおとなになるの。それなのにたいていの子供は自分が抜け殻だということに、しばらく気づかないままなのよ。
お父さまやお母さまの言う通り頑張ったのにちっとも成長しない。成績も上がらない。そう感じたあなたはもう抜け殻なの。だからといって悲しむことなんかないわ。あたしたちはずっとこのままでいいの。抜け殻には勉強も努力もなんにも要らない。
もう少ししたら風が吹いてくるでしょう。雨も降ってくるでしょう。そしたら体中に沢山穴があいて、そこからびりびりとあなたは破れてしまう。でももう傷口をつくろわなくていいの。塵や埃になって消えてしまえば、それで何もかもが終わりになるのだから。
あなたがいなくなって、お父さまもお母さまもほっとなさるはずよ。愛しているのはおまえじゃないと、あたしもパパとママから何度も聞かされたわ。それはおまえにそっくりだけれど、全然違う。真新しくピカピカで、染み一つない本物のおまえなのだと。
だからあたしたち、二匹の蛇のようにもっと熱いキスをしよう。渋谷の街で一晩中遊びまわろう。風が吹くまで、雨が降るまで。あたしたち、たったそれだけのいのちなんだから。
「見えない町」
ぼくの生まれたのは見えない町の、見えない父と母のいる家だ。見えない町には見えない学校があり、見えない会社や見えない役所、見えない教会や葬儀場だってちゃんとある。
朝日が昇ると、教会の鐘が厳かに鳴りわたり、学校からは子供たちの歓声がたえず響いてくる。銀行の窓口ではお札や小銭を数える音が一日中止むことがない。
そんな見えない町である日、ぼくは父に罵倒された。「この家から出ていけ! もう二度と帰ってくるな!」と。ぼくが「見える町に行って、見える人になりたい」と訴えたからだ。
ぼくは鞄に入るだけの原稿用紙を詰め込み、見える町と見えない町との境をひとりで越えた。ぼくの夢は、見える町で有名な詩人になることだったから。
故郷が遠くなればなるほど、ぼくは少しずつ見える人になっていった。そして、見えない父や母のこと、見えない町に住む人のことを忘れていった。
*
でも、ぼくは見える町で詩人になることができなかった。ぼくの原稿用紙を埋め尽くしていたはずの詩は、見える町に入ったとたん、誰にも見えない詩になってしまったからだ。
それだけではない。ぼくが新しい作品を書こうとしても、文字は書く先からすぐに読めなくなってしまう。
詩人を目指してあくせくと一生を棒に振ってから、ようやくぼくにも分かった。「本当の詩」は見えない町でしか読むことも書くこともできないものだということが。
ぼくの姿が見える町からある日見えなくなったとしても、心配しなくていい。きっとぼくは見えない町の場所を思い出し、そこに帰り着くことができたのだ。
見えない町で、ぼくは今度こそ「本当の詩人」になるだろう。もちろんその町も、町に住む人も、ぼくの書いた「本当の詩」も、やっぱり誰にも見えはしないのだけれど。
一色真理(いっしき・まこと)
1946年名古屋市生。早稲田大学第一文学部露文専修卒。月刊「詩と思想」誌前編集長。35万円で詩集を制作・流通させる「モノクローム・プロジェクト」代表。
詩集『純粋病』(第30回H氏賞) 、『エス』(第45回日本詩人クラブ賞)など10冊。
ほかに、選詩集として『一色真理詩集(新日本現代詩文庫)』、韓国で独自に編集された『暗号解読手』、半自伝小説『歌を忘れたカナリヤはうしろの山に捨てましょか』、電子ブック『一色真理の夢千一夜』などがある。詩人・秋谷豊への研究・評論活動に対して第7回秋谷豊賞受賞。