アートとフェミニズムは誰のもの?
村上由鶴さんの『アートとフェミニズムは誰のもの?』を読んだ。
私が大学生だったときはおそらくジェンダー論流行のはしりで、授業の中でもよくフェミニズムが議論に挙がった。
でもその頃は、フェミニストといえば男性に負けない強い女性!といったイメージで、アカデミックな土俵で男性と闘っているという印象を受けた。
そういったこともあり、今までフェミニズムという言葉の響きにどこか違和感を覚えていた。
でもこの本の著者である村上さんは私と同年代で、しかもアートとフェミニズムという今まで並列に語られることのなかった二つを題材にしているところに興味を引かれた。
読んでみた感想として第一に思ったのは、
分かりやすい、ということと、
怒っていない、ということだった。
本の中にも書かれているように、フェミニストは今まで「怒れるフェミニスト」だった。
世の中の不条理に対して、こんなのおかしい!と怒っていた。
声を上げることは大事だけれど、それは他者を余計遠ざけ、怖がらせ、理解のできないものとしてまた自分たちが周縁に追いやられるだけだった。
でも本当に大切なことは、アートや日常の中に潜む差別の系譜を認め、それを無理解のうちに消費したり再生産したりしないようにしよう、ということ。
実際、アメリカの画家ポロックについて、絵の具を上から落として無作為に絵画を制作するアクションペイントが、新しいコンセプトなのは頭では理解できていたけれど、なぜここまで称えられているのか正直分かっていなかった。
けれど、フェミニズムというツールを通して見てみると、ヨーロッパに対等するアメリカのヒーローとしての像が浮かび上がってくる。
たしかに、ヒーローは男でなければならなかったのであろうし、そしてエネルギー溢れるアクションペイントそのものが、そのときの時代の構造にマッチしていたのであろう。
差別のピラミッドを平すのは容易なことではないかもしれない。
けれど、まずはそこにピラミッドがあるということを認め、どうしてそうなっているのか、自分もそこに加担していないか、気づかせてくれるためのアートなのかもしれない。
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