卒論のボツ案

文化と人間の道徳観

はじめに
本レポートでは、人間の思考は自文化に影響を受けるのか、それにともない人類は共通した道徳観をもつかという問いについて考察する。

文化について
 和辻哲郎(1889-1960)は、文化の形成において、文化を創り出す人間とその人間を取り巻く自然との関係に着目し、さらに文化を論じるにあたって自然環境が基本的に重要な要素であるとしている1。
 また、エドワード・タイラー(1832-1917)は「文化あるいは文明とは、そのひろい民族誌学上の意味で理解されているところでは、社会の成員としての人間(man)によって獲得された知識、信条、芸術、法、道徳、慣習や、他のいろいろな能力や習性(habits)を含む複雑な総体である」とし、文化を生物的遺伝としてではなく、人間が社会的に成長する過程で学習するものとしてとらえた2。

文化と道徳観
 次に、文化と人類の道徳観の関係について考えていきたい。ヘロドトスの『歴史』において、古代ギリシア人とカラチア人は、家長である父親の埋葬方法が違うことが述べられている。ギリシア人は火葬を、カラチア人は人食、つまり家族を食べて弔う慣習がある。双方は互いに自文化とのギャップに驚き、違和感や恐怖を抱く。
 さらに例をあげると、北極圏の先住民エスキモーの文化に、乳児殺しというものがある。現代では禁止されているが、その背景には避妊手段がないことや、北極圏という過酷な環境での育児は困難を極めること、また食糧確保においての狩りは男子のほうが尊重されることなどがあげられる。
 つまり時代や地域、民族によって文化が異なるように、道徳律も異なる可能性がある。このように道徳は文化ごとに相対的な存在であるに過ぎないという立場を、『文化的相対主義』という。

文化相対主義 -テーゼ:普遍的な道徳律は存在し得るか-
 ソクラテスやプラトンは道徳観が文化ごとに違うということはあってはならないとし、また、人間には絶対的道徳基準がなければならないとしている3。
 しかしこの「普遍的な道徳は存在し得るか」というテーゼに対する主張は三つある。
まずひとつめは、「文化・社会ごとに道徳は異なる」ということである。これは上記のギリシア人とカラチア人の埋葬方法の例や、エスキモーの例のとおり、事実である。
ふたつめは、「自文化も含め、複数の文化においての道徳の優劣はつけることはできない」という点である。文化相対主義の立場としては、自文化の道徳に基づいていればそれは「善」であり、外部から指摘することではない。エスキモーの乳児殺しの他にも、中国の天安門事件や、インドのカースト制度は批判不可能である。自文化の道徳は、その文化の中にしかないために一般化できない。

文化相対主義のポイント
①     国内文化が唯一の道徳基準である。
②     自文化は「正しい」が、自文化・他文化に優劣はない。
③     外部から他文化が「間違っている」という判断はできない。

文化相対主義;問題点
 あくまで注意したいのは、文化相対主義はひとつの立場であり、完成された理論ではないということである。であるからして、様々な問題点があることは否定できない。
 文化内部の「野蛮」といえるような習俗(割礼やFGMなど)を見逃すことになりかねないし、韓国の光州事件やカンボジアのポル・ポト政権による大量虐殺、ウイグル問題、チベット問題など、国家政府による国民の虐殺や、少数民族の弾圧の批判も不可能になってしまう。
 これらの問題点の発端は、主に「文化」という言葉の範囲が曖昧なことである。文化の単位を国とするのか、地域とするのか。どの単位を文化とみなすかによって、「道徳」の基準が決まってしまう。そしてこの基準を決めるのは、ポル・ポトのような強い権力者である可能性も否定できない。
 また、同一の文化内部でも、様々な価値観があり、それは「世代」、「地域」、「学歴」、「所得」、「家族」、「個人」など非常に多様である。よって、文化単位で価値を一元化することは不可能であり、最終的には個人単位で道徳が異なる「価値相対主義」へ陥る。

功利主義
 上項のまとめとして、多様な文化の尊重は重要であるが、しかし一方で、人々が不幸になる文化であれば、それについては批判不可能であってはならないということになる。なるべく多くの人々が幸福になる原理を追求するべきであり、これを功利主義という。
この功利主義という立場は結果重視の立場であり、道徳的に正しい行為は、その結果によって判定されるべきとし、また、その結果は社会の成員に最大の幸福をもたらすものであるべきある。この功利主義という立場を考える際、1884年に起きたミニョネット事件4を例にあげたい。
1884年、4名のイギリス人を乗せた救急ボートが漂流していた。船長、航海士2名、17歳の雑用係が乗っていた。数日間は食糧で飢えをしのいだが、海水を飲んだ雑用係はかなり衰弱してしまった。そこで船長は航海士達に指示し、衰弱した雑用係を殺害し食べてしまった。そして船長と航海士達は生き延び、救助された。

この例は3人を救うために1人を殺してよいのかという問いである。勿論、社会的結果がどうであれ衰弱し無抵抗の雑用係を殺害することは許されない。しかし功利主義の立場で言えば、その当時の状況で最大多数の幸福を優先したということになる。
ベンサム(1748-1832)は「最大多数の最大幸福」を提唱し、道徳的に正しい行為は、行為の「効用」を最大化してくれるものであるとしている5。この「効用」とは、行為の結果、得られた快楽の総量であり、これを量的快楽説という。
一方ミル(1806-1873)は「満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうが良く、満足した愚か者であるよりも、不満足なソクラテスであるほうが良い」と述べ、身体的快楽ではなく、知的かつ精神的な快楽が必要であるとした6。行為の「効用」は、快楽の量ではなく質によって決まるとし、これを質的快楽説とした。質的快楽説の例には、キリスト教の道徳理念(隣人愛など)があげられる。
このように社会的効用(結果)重視の功利主義に対し、個人の内面的な「動機」を重視する義務論についても述べていきたい。

義務論
 カント(1724-1804)は誰でも無条件に守らねばならない普遍的な道徳律が存在し、人間はそれを守らねばならないと考えた7。この際の道徳律は「〇〇したければ××するべきである」という仮言的な命法ではなく、「(無条件に)××すべきである」という定言的命法で表現され得る。どんなルールもすべて定言的命法になるわけではなく、そのルールはどんな状況でも適用可能なのか、すなわち普遍化可能かどうかという基準がある。
 人間は社会が制定した法以前に、道徳法則という法を備えている。「自己の行為の裁判官」としての良心があり、それは社会の法を超越したより高次の審級である。

おわりに
 以上、文化と道徳観のかかわりについてまとめてきたとおり、文化や道徳観は人類の精神的な関心のあるところであり、さまざまな議論がされてきた。今現在の文化は生きている人間が形成するものである以上、常に形を変えていくものであり、また人間の思考も同じである。ソクラテスやプラトンのように人間は絶対的道徳基準を持つといういわゆる善のイデアについては、人を想う心という人間特有の能力に根差したものであり、その存在は希望的であり、どこまでのレベルを普遍として求めるかということが議論の尽きない点であると感じた。

1:和辻哲郎 1935『風土―人間学的考察-』より参照
2:蒲生正男 編1978『現代文化人類学のエッセンス』より参照、タイラーの主著『原始文化』(1871)
3:プラトン著 久保勉訳 1927『ソクラテスの弁明・クリトン』
4: 1884年に実際に起こったミニョネット事件
5:ジェレミー・ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』
6:JSミル『功利主義論』
7:御子柴善之 2015『自分で考える勇気:カント哲学入門』

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