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善意は悪意があってこそ、成り立つのかもしれない

冒頭

「偽善者」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
もしかしたら、ほとんどの人間が知っている言葉かもしれない。

話は変わるが、善意という言葉を聞いて皆さんは何を思い浮かべるのか。
一般的には、『他人に優しくする』という行為だと想像するのではないだろうか。

だが、等しく優しいという行為は必ず善意になるのだろうか。
否、そんなことはない。

優しさは100%の善意なのだろうか

想像してみて欲しい。
お金持ちの人が貧困で悩んでいる人にお金を配っていたら。
教室で孤立しているクラスメイトを一人にしないよう遊びに誘っていたら。
若手の有望な社員を全社員の前でベタ褒めしている上司がいたら。

上記の内容は、基本的には『優しさ』が含まれている行為であると私は思う

お金持ちの人はきっと貧困を救いたかった優しさなのだろう。
教室で孤立しているクラスメイト誘う子どもは孤独の辛さを救いたかった優しさなのだろう。
若手の有望な社員を褒める上司は若手社員の能力を皆に知ってもらいたい優しさなのだろう。

だが、この優しさは100%の善意で行われている行為なのだろうか。
私は、はだはだ疑問である。

きっと、お金持ちの人は貧困を見下し、蔑んでいるのだ。
きっと、クラスメイトを誘う子どもは自分が上だと主張しているのだ。
きっと、褒めている上司は若手社員へのヘイトを集めたいのだ。

フィクション話にフィクションのこじつけをしてしまう。
だから、あいつらは「偽善者」なのだと言ってしまう。

善意の裏側にあるものは悪意ではない

そもそも、善意というものは悪意の裏側なのであろうか。

ここまで読み進めた方は、なんとなく気付いているかもしれないが、善意の裏側は悪意なのではない。好きの反対が無関心だと言われていることと同じように、善意の裏側は無視である。何もしないことが善意の裏側であると私は考える。

では、悪意とはなんだろうか。
ここに正解はない。と私は思う。

悪いことというのは、客観的には判断できないことだ。
不倫は悪いことかもしれないが、不倫関係の人達は真っ当な理由をこじつけるかもしれない。
人を殺害してしまった人も正当防衛だと叫ぶかもしれない。
友人を騙してお金を巻き上げた人も、親にお金を取られているかもしれない。

『悪』というものは一般的に見れば『悪』というだけで、客観的だとか主観的だとかそう言った部類の話では無いように感じる。

もし悪意を持ってお金稼ぎがしたいと考えている人も、社会貢献を行い得たお金は悪意を持ってお金を稼ぎたいと思っているから悪ではない。
どんなブラック企業のブラック社長であっても社会貢献をしているのであれば、客観的には歴とした経営者である。
しかし、社員の主観から見れば、自分たちの血肉をお金に変えて、自分ばかり肥やしを得ているふざけるな!と考えるかもしれない。

悪意というのは客観的に見た時には善意に見える可能性を秘めているということだ。

善意の原動力はどこにあるのか

そもそも人の善意への原動力は悪意なのではないだろうか。

同期のあいつよりも女子社員に好かれたい
部下のあいつよりも仕事が出来ると思われたい
上司がウザいから何も言えなくしてやろう
あの子を落としたいからカッコいい自分を演じよう

本当は皆、原動力にライバルや気に食わない奴などを仮定し善意と称して悪意を増大させているのではないだろうか。

善意の原動力が100%悪意であるとは言わないが、ほとんどの割合を悪意が占めていると感じることが多くある。

皆も一度自分の原動力を見つめ直してみると面白いかもしれない。
加えて、親しい友人などがいればぜひ聞いてもらいたいと思う。

そして、私は死ぬまで「偽善者」を貫くとここに誓う。

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