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終戦の詔書

今年も終戦記念日が過ぎた。

お盆の最終日、戦没者の霊も半世紀以上の時間を経て尚、懐かしい人の元へ戻るのだろうか。

私は戦後四半世紀を経て生まれた。出征した家族もおらず、戦争は学校で習った近代史の出来事だった。

だが、前の記事に書いた長沢さんに出会い、初めて戦争にいった人から戦争の話を聞いた。

長沢さんが伝える戦争は、授業で習ったことより、メディアで流れる画像より、鮮明に心に刻まれた。

死線をかいくぐり、友の死を目の当たりにして生き延びた長沢さんは、戦時中の自分を否定することなく、戦後に英語やテニスを嗜みながらも、決して戦死した友を忘れることのないバランスの取れた人だった。…いや、私は彼の葛藤を知らないだけだったのかもしれない。

長沢さんは、知り合って4年後の春、癌のために他界された。

その後、私は病院のリハビリで言語聴覚士として働きだす。その頃の患者さんの年代は、丁度戦争中出征していた方が多い筈なのに、殆ど戦地に行ったことのない方ばかりだった。不思議に思って、一人の出征経験のある方に何故ここの市の人は戦争に行った人が少ないのか質問した。

「戦争にいったもんは、みんな死んじまったからな」

空を見つめながら、ぽつりと吐き捨てるように言った。言葉は鋭利な刃のようで、胸に痛みをおぼえた。脳裏に長沢さんが蘇る。

戦争にいった人達には、その一人一人の人生があり、仕事があり、家族があった。愛すべき故郷と謳歌すべき時間があった。誰も死にたくはなかった筈だ。その人達が守りたかったものは何なのか。

それ以来、政治的なイデオロギーとかではなく、終戦記念日には、素直な感謝の気持ちで長沢さん達が戦った地に向け手を合わせる。

去年、地元で開催されたトリエンナーレは、友を踏みにじられたような気持ちがした。戦後74年も経過して、国のために亡くなっていった人達を同じ国の人が蹂躙する意味が理解できない。

だから、今年の終戦記念日は殊更釈然としない気持ちを抱えて迎えた。

そんな時、友人がFacebookで終戦の詔書についての記事をシェアしていた。

玉音放送として有名なこの文章は漢文調で一般人には難解。かくゆう私もその一人で、『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…』という下りは知っていたが、それ以外は知らなかった。

私が今回初めて読んだ口語訳は自分の死を決意して、臣民を守ろうとした昭和天皇の心が伝わってくる文章だった。殊、最後のくだり

『…もし、感情のままに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士が互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。国を挙げて家族のように一致団結し、この国を子孫に受け継ぎ、神国(日本)の不滅を固く信じ、国の再生と繁栄の責任は重く、その道のりは遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に傾け、道義心を大切にし、志を固く守り、国の真価を発揮し、世界の流れから遅れないよう努力しなければならない。』

という部分は今現在の日本の状況に置き換える事ができるのではないだろうか。この文章には一切の無駄がなく、ぜひ原文をご一読いただきたい。

この詔書を原点に、日本国民として大切にすべきものは何か。一度考えてもいい時期なのではないだろうか?



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