見出し画像

昔は本が読めなかった話〜母は積読チャンネル〜

この記事は「積読チャンネル非公式 Advent Calendar 2024」の15日目の記事です。昨日はizushinoさんの「マイベスト本2024」、明日はるなさんの記事です。

「積読チャンネル」(https://www.youtube.com/@tsundoku-ch) は毎週おもしろい本をリスナーに紹介し、積読をがんがん増やしてしまおう、というとてもよいコンセプトの番組だ。2024年12月時点で週2更新だが、わたしは欠かさず見ており、なんなら月額1000円払ってサポーターコミュニティにも入っている。月額これだけでこんなおもしろいチャンネルを維持できるなら実質タダである。


わたしは現在私立大学の教員をしており、博士号も取得している。言語学、特に韓国語が専門で、英語はもちろん韓国語や、必要であればロシア語や中国語の文献を用いて研究することもある。そんな人間なので、おそらくほとんどの人は「まぁさぞかし本を読むのが得意なんでしょうなぁ」と思うかもしれない。でもそれは違う。そして昔はもっと違った。わたしは全然本が読めない人間だった

しちゃおうか、「読書」…!

本(といっても漫画だが)を読み始めたのは早かったほうだと思う。母が『週間少年ジャンプ』を読んでいたので、わたしも当時連載していた「幽遊白書」を読んでいた。保育園の年長クラスの頃だったと思う。「幽遊白書」は難しかった。そしてそのあと富樫先生が連載していた最高傑作『レベルE』はもっと難しかった。

小学校に入ってほどなくして『もりのへなそうる』という児童書を読んだ。5才のお兄ちゃんと3才の弟が、ある日森の中、「でっかい、たがも (たまご)」を見つけ、そこから生まれた「へなそうる」という首長竜のようなヘンテコな生物に出会う。小さくてかわいい仲良しの2人がでかつよに出会う物語。実質「ちいかわ」である。
この兄弟とへなそうるの言葉のやりとりが大変おもしろく、ハマって何度も読み返したのを覚えている。上の「たがも」は弟の言い間違いだが(実際にこういった言い間違いをする子は多いらしい)、このようなクスッとくるような言葉たちがちりばめられている。もしかしたら言語に興味を持った原体験と言えるかもしれない。大きくなってからもアカウント名に「へなそうる」を使っていたくらい、わたしにとっては印象深い作品である。

逆ムスカ

と、ここまではよかったのだが、その後は全然本が読めなかった。
小・中学校のころはたまに授業が休みになると、図書館で本でも読んどけタイムがあった。友達とふざけていても怒られるので、適当に本をとって読んでみようとするのだが、よく言う「目が文字の上を滑っていく」ような状態で、全然頭に入らなかった。「読める、読めるぞ…!」ならぬ「読めない、読めないぞ…!」で、完全に逆ムスカである。別に国語が苦手だったわけではない。識字にも問題なかったのだが、主体的に活字の本を手に取って読み、それを楽しむということができなかったのだ。
漫画は好きだったのでけっこう読んでいたのだが、その後活字の本を読むことはなく、ついには中学3年生になってしまう。

ゴミ置き場の母

母は本が好きだ。特に漫画と小説をよく読んでいて、漫画は少女漫画、少年漫画問わず読み、小説はミステリが中心だ。若いころの母はいわゆる活字中毒というやつだった。小さいわたしを寝かしつけたあと、さぁいざ読書タイムを満喫!といきたいところだが、家に読むものがない。Kindleどころかネットもない時代だ。母はゴミ置き場に捨てられている漫画雑誌を漁って読んでいたこともあるという。ここまでくると本当に中毒である。

そんな母は本を読むと、よくその本の話をしてくれた。父はまったく本を読まないし、妹はわたしよりも6つ下なのでまだ本のことはよくわからない。わたしが唯一の聞き手だったのだ。
この話はここがよくて泣ける、このキャラクターのこういう性格が魅力的、この本のこの一文がうならせる。
いろいろな話をしてくれたものだ。

ミステリ好きの母はよく宮部みゆきさんの作品を読んでいた。わたしが中2だった頃はちょうど『模倣犯』が大ヒットしていて、宮部みゆきさんの小説は制覇していたんじゃないかと思う。『クロスファイア』という作品では、主人公の女性が念じるだけで火を放てる能力を持っているのだが、たまにガス抜きが必要で、学校のプールに忍び込んで火を放出しなきゃいけない、その描写がおもしろかった、と母が楽しそうに語っていたのをなぜかよく覚えている。

テトリスの長い棒

母の宮部みゆきプレゼンを聞いているうちに、わたしもなんだか小説が読みたくなってきた。しかし、宮部みゆきさんの作品はだいたいにおいて長い。前述の『クロスファイア』も上下巻だ。長らく活字の本を読んでいない人間にいきなり上下巻は厳しい。
そこで、わたしは宮部みゆきさんの作品で、自分でも読み切れそうな本を図書館で選んで借りてきた。選んだ本は『誰か—Somebody』という作品なのだが、ストーリーはびっくりするほどなにも覚えていない。割と淡々としたストーリー展開の探偵物だったことしか記憶にない。だが、ある一節の表現が妙に心に残り、読み終わったあと母にその描写がおもしろかったことを語ったことだけは頭に残っている。母はどちらかというと話し手タイプで聞き手タイプではないので、わたしがそのことを語っても「へえ、おもしろいね」ぐらいのリアクションだったが。
記憶を辿って、当時わたしが気に入った一節を探してみた。

遠く畑の向こうに、プレイをし始めたばかりの「テトリス」の画面そっくりに、まばらなビルの形が見える。そのなかに、一本だけ落ちてきた四マス分の縦棒のような電波塔があった。

(『誰か—Somebody』p. 343)

今だったらそれほど心に残る一節ではなかったかもしれない。でも、わたしにはこれで十分だった。その読書体験は、なにか欠けていたものが、テトリスの例の長い棒がやっと上から降ってきてピタリとハマるかのように、わたしの読書への障壁を取り払ってくれた

それからわたしは不思議なくらい本が読めるようになった(ただ、この頃はまで小説が限界で、大学に入ってからは一般書が読めず苦労することになる)。またそのとき母は宮部みゆきさんの後、京極夏彦先生の本を読んでいた。そのプレゼンを聞いたわたしはおもしろそうだと思い、『姑獲鳥の夏』に挑戦することにした。高校1年生のころだ。京極先生の本はとにかく分厚く、一般に「鈍器本」「レンガ本」などと呼ばれる。わたしはこの本を胸ポケットに入れていたおかげで、暴漢の放った凶弾に倒れずに済んだことがあるほどだ。『姑獲鳥の夏』はその中でも厚くないほうなのだが、それでも全430ページの2段組である。骨太にもほどがある。しかし、読み始めてみるとこれがめっぽうおもしろく、その分厚さを苦にすることなくスルスルと読み切ってしまった。

それからは京極先生の『姑獲鳥の夏』をはじめとする「百鬼夜行」シリーズにどハマりし、高校に入ってからは友達との交流もそこそこに休み時間は読書にふけっていた(授業中はほとんど寝ていた)。特に好きなのがシリーズ2作目の『魍魎の匣』で、普段本を読み返さないわたしも、この本は2度読んだ。人生で(専門書以外で)読み返した数少ない本である(おっと、映画版「魍魎の匣」の悪口はそこまでだ…!)。

母は積読チャンネル

毎度毎度読んだ本の話をしてくれて、読みたい本を増やしていく。実質わたしの母は積読チャンネルだ。中学3年以降のあの読書体験がなければ、今のわたしはなかったかもしれない。

京極先生のあとは森博嗣、伊坂幸太郎などにハマって読んでいたのだが、結局小説の域を出なかった。大学に入ってからは一般書が課題図書として提示されることがあり、これがまた全然読めなかった。今のように本が読めるようになったのは本当に学問に興味を持ってからだったと思う。
今も本を読むのはそれほどはやくなく、気を抜くと頭の中で音声を響かせてしまって、音読と同じようなスピードになってしまうときがある。自分が本を読んでいるときに頭の中でなにが起こっているかに興味があるので、『おしゃべりな脳の研究—内言・聴声・対話的思考』を読んでみたり、次に読もうと『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』を積んだりしている。これらの本を読んで感じたことも、またいつか書ければと思う。(完)

【今回紹介した本】

『レベルE』(冨樫義博)
『もりのへなそうる』(わたなべ しげお、 やまわき ゆりこ)
『模倣犯』(宮部みゆき)
『クロスファイア』(宮部みゆき)
『誰か—Somebody』(宮部みゆき)
『姑獲鳥の夏』(京極夏彦)
『魍魎の匣』(京極夏彦)
『おしゃべりな脳の研究—内言・聴声・対話的思考』(チャールズ・ファニーハフ)
『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』(メアリアン・ウルフ)

(ご購入はバリューブックスで!)


いいなと思ったら応援しよう!