シロクマくらいがちょうどいい。
「フローズン・プラネット」か何かのドキュメンタリー番組をたまたま観ているときだった。「恋をするならシロクマがいい」と思った。
シロクマはどうも1匹であの真っ白な世界を生きているらしい。
たった1匹で凍てつく白い氷の上を歩き、食い、眠り、また歩く。そんな毎日を過ごす。そうして繁殖期が巡ってくると、オスはメスを求めて、またひたすら歩き続ける。歩いて、歩いて、歩き続けてようやくメスに出会う。そして、求愛し、時間をかけてメスをその気にさせる。
けれども、彼女を求めているオスは、もちろん彼1匹だけじゃない。同じように歩き続けて彼女を見つけた別のオスもやってくるのだ。すると彼は、彼女を守るために別のオスと死闘を繰り広げ、流血しながら戦い、命をかけて別のオスを追い払う。
薄情にもメスの方は心も体も冷め切って、オスは一からメスのご機嫌をとらなくてはいけない。そうこうしているうちに、また別のオスがやってくる…。
数匹との死闘の末に彼女を守り抜いた彼は、最終的にはアカクマと呼びたくなるほど全身を赤く染めた姿になる。心身ボロボロになってようやく、カップルは結ばれ、彼は傷だらけの体を引きずって去っていく。
2匹はおそらくもう2度と出会うこともないけれど、冬を越すと2匹の間に子どもが生まれている。
人間の私は、家族と暮らしているし、見ず知らずの人間たちと一緒に電車に詰め込まれ、毎日働きに出かけている。職場の人間と毎日顔を突き合わせて働き、スマホ越しに恋人と言葉を交わし、週末に愛を交わす。目を閉じていてもメディアを通して人間の温度を感じる。
人間にまみれた「東京」という世界を生きている。子ども嫌いの恋人との結婚に悩みながらも、密かに子どもを育てる夢を見る。将来のために貯蓄やキャリアを考えながらも、今を生きるのに手いっぱい。
シロクマの方がずっと情熱的に生きているんじゃないかと思う。
誰もいない世界を歩きに歩いて、そしてようやく巡り会う恋。
気のない素ぶりを見せても、自分を守るために血みどろになって闘う彼の勇ましさと情けなさに、シロクマじゃなくても昂ぶる。「何を呑気なことを」とか「気のない素ぶりを見せる女ってウザい」「女のためにそこまでやる男ってキチガイっぽくて恐い」とさめざめと思わなくもない。
でも、実のところ、心の奥底でそっとそんな恋だか愛だかを望んでしまうのだ。
私がきっと永遠に経験することのない孤独。
私がきっと永遠に経験することのないロマンス。
燃えるように生きて散るには、シロクマくらいがちょうどいい。
けれど、私はシロクマほど強くはないし、シロクマほど素直でもなく、シロクマほど大胆にはなれない。
問題があっても家族との縁を切ることはできないし、情熱からほど遠い恋人との愛にため息をこぼしていても、彼を捨てて奔放に異性を探すなんてできない。
いやなことがあっても家族を愛することを止められないし、うんざりしても恋人を愛することを止められない。
それは“弱さ”なのかもしれないし、“ずるさ”なのかもしれない。
愛されているのかと疑うことはあっても、愛していることを疑わない。でも、そこそこに幸せだと思う。
そのことが、とても贅沢に感じられる時代に生きてるんだと思うと、ぎゅっと誰かを抱きしめたくなるし、ぎゅっと誰かに抱きしめられたくなる。
だから、こんなにシロクマに羨望の想いを抱くのにちがいない。
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