見出し画像

症状の範囲、生活に支障って・・?

生活に支障が生じる…。 病識があるかないか…。 診断の基準は…。 

前々から、言葉としても気になっていた「生きづらさ」・・・。

ふとしたキッカケをいただいたので、少し自分なりにまとめてみようかなと思いました。

まずは・・・

「症状とは?」

精神障がいの方と関わる機会が多い中で、上記の「病識」にも繋がっていますが、統合失調症であれば、「陰性症状」「陽性症状」の強弱・自覚症状なのか、妄想や幻聴の世界の中に浸っているのか。上手くお付き合いしているのか・・。等、”症状”があるから困っているのか?と言うと違うように思います。ここには幾つかの可能性があると思います。

1.症状を自覚していない中で、まわりからみても本人自身も困っている。

2.症状を自覚している中で、まわりからは困っているように見えるけれど、本人は困っていない。

3.症状を自覚している中で、まわりからみても本人自身も困っている。

4.症状を自覚していない中で、まわりからは困っているように見えるけれど、本人は困っていない。

他にもありますが・・・、この中で4.が多かったかな・・?と思いつつ、最近は1.や4.から2.や3.へ変わっていく過程に、「ピア活動」があるように思います。

場面緘黙にも自分の中では通じますが、

場面緘黙に関しては、4.の逆パターンでした。

「症状の自覚もしていない」「まわりからは困っているように見えない」「本人は困っている」というパターンです。

このパターン・・意外と多いのではないかな?と思います。

こういう時にどうすれば良いのか・・。

今は、病気や障がいのサポート体制が整ってきている分野もある反面、まだまだ発展途上の分野も多いです。

そんな中で、次に触れていきたいのが、「生きづらさ」「生活に支障が出る」というワードです。

「生活に支障が出る」も自分自身が思っているのか・まわりからみてそう思われているのか。もしくは自分自身もまわりもそう思っているのかは、大切だと思います。

ここからは、個人的見解・意見になるので、少しズレてしまう部分があるかもしれませんが…

場面緘黙に関しては、「エクスポージャー」からの発展・成長・変化という視点を個人的には大切に感じています。同時に、これは病気・障がいの有無に関係なく、成長過程・リハビリや回復過程でもあるのかなと思います。

*症状の「レベル(軽さ・重さ)」と、困り事の個人差もあるように思います。

例えば、「風邪」であれば、病院に行き、診察を受け、必要な治療(薬の処方・服薬など)を受けて、回復していきます。症状は、喉の痛み・発熱・咳・鼻水・頭痛・吐気・・・等、様々あると思いますが、治療を受けながら、それぞれの症状に合った治療を受けていくと思います。治る早さも病状・個人差等で様々ですよね。

これが、例えば「統合失調症」であればどうでしょう?

診断名だけで一概に〇〇とは、けして言えない診断名という事もあり、個人個人で症状も違う・困っている事や価値観(何を大切にするか)、環境(家族・地域・医療・金銭面含)等、「困っていること=症状」ではないはずです。

二次的な側面から「幻聴」を小さな例に考えていくと・・・

「症状」=幻聴で自分の事を責められ続けて眠れない。

「困り事」=睡眠不足。誰も信じられない。疑心暗鬼。


症状があることで、何に困っているのか・何が苦しいのか。

症状がありながら、本当はどうなりたいか・何をしたいか。

症状が分からなければ・・・ 自覚していなければ・・・

今困っている事・苦しい事は何が阻害しているのか。

本当はこうしたい・ああしたいと思っているのを邪魔しているのは何か?


「症状」と「困り事」を整理していくと、

段階によって変わってくると思います。



自分の場合に置き換えていくと・・・

学校という場面で、「話せない」「笑えない」(難しく言えば、緘黙+軽い緘動)というのが幼少期~中学・高校中退までの症状?でした。

この症状から、自分は何に困っていたのか・・。

「家では出来るのに、学校では出来ない事には気付いている自分自身を、親も先生も知らない・診断も受けられなかった事から、”困っている”と明確に出来なかった」、「皆が出来ている事が出来ない自分への劣等感」、「少しでも笑ったり、声を出す事で注目されたり、からかわれたりする事で更に話したり、笑えなくなっていった」、「変わろうと思っても変われない自分を誰にも分かってもらえなかった」…。

他にも多数ありますが・・・


「皆が出来ている事を普通にやりたかった」、「理解者が欲しかった」等が自分の希望の一部だったのではないかなと思います。

高校中退後、笑えるようになったり、話せるようになってくる過程を経て・・ 症状と困り事も変化していきました。


友達をつくり、話す事は出来るようになったが、雑談がなかなか出来ない。

笑う事が出来るようになったが、なんでも笑って誤魔化す面も出てきた。

プレゼンや発表機会で頭が真っ白になって、固まってしまう。


このような面も、大学・社会人になり、自分自身を晒す(無意識的なエクスポージャー)機会も多く、自分から率先して晒していく面もあり、自分でも驚く程に学校以外でも話せなかった場面がありましたが、「話せる」「笑える」機会は格段に増えていきました。

自分の体験談を入れる事で、文章がまとまらなくなってきましたが・・

「症状」が改善したから「困り事」がなくなるのか?というと、そんなことはないと思います。

「症状」があったから、「困っていたこと」はレベルがとても高く・重いものだったのかもしれません。

「症状」が少しずつ回復・改善していく中でも、「困り事」は存在していると思います。*風邪の喉の痛みが初期の痛みから、だんだんと緩和されていくイメージを想像しました・・。

「症状」は診断と同じように、明確なものかもしれませんが、「症状」から発生する「困り事・生きづらさ」のようなものは、個人差があるのではないでしょうか。その個人差を見極めていくこと。そこに、必要なサポートが入ることも大切です。

様々な視点があると思いますが・・

これは、「医学(医療)モデル」と「生活モデル」の考え方ですかね。

某書籍で書かれていた「ケア」と「セラピー」にも繋がりますかね。

*治療・解決するのは誰か?

 ⇒他者(医療者等)に委ねるのか、本人が自分で対処していく力をつけていくのか。


症状や病状という括りでみてしまうと、その人個人の問題になってしまい、その人個人の症状や病状を治せば良いという感覚になってしまうかもしれませんが・・

それよりも、症状や病状がある中で、どんなサポートを受ければ、今迄出来なかった事が出来るようになるか。その人個人ではなく社会・環境がどう変われば、気持ちが楽になるだろうか・・。

そんな風に考えていけると、症状や困り事も話しやすくなるかもしれないですね。同時に、特に”困り事”が変化していくという事は、出来る事が広がっている可能性も高い。小さな夢や希望・目標から、大きな夢や希望へ・・。

症状はレベルも含めて、変化していく。

困り事も、その人個人によって、日々変化していく。

自分と他人は違うということ+可能性は無限大。

助けてもらう・支えてもらうことが出来る事も自分自身の力。

困った時、自分で自分の事を考えて、支えられる力をつけていく。


いつもながら、まとまりのない文章になりました・・。

ザーッと書き出した感じなので、時間のある時に修正・加筆するかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?