
性別なんてなければいいのに
ずっと書きたかった性別の話をしようと思う。
子どもの頃から、自分の性別にコンプレックスを抱えてきた。4年ほど前、声優の青木志貴(身体は女性だが性自認は男性だと公言している)をきっかけに知った「性別はグラデーション」という考え方に救われて、無理に男か女かに当てはめなくていいんだと思えてから、昔よりかは楽になっていた。だけど、それでも、やっぱり気にしてしまう。
どうして自分は女性に生まれてしまったのだろう。
どうして自分は男性じゃないのだろう。
自分の心は女じゃない。でも、じゃあ男ですかと聞かれても分からなくて、頷くことはできない。なぜ性自認がはっきりしないのだろう。性自認って何なんだろう。なぜ自分は「性別なんてどうでもいい」と割り切れないのだろう。性別なんてものがなければこんなに悩むこともなかったのに、なぜ性は分かれているんだろう。考えても仕方がないことばかり頭に浮かぶ。こうした思考が完全に消えることはないのだろうか。
・・・
この記事は11月に書き始めたが、文章が長くなるばかりで全然整理できず、記事としてのまとまりがなさすぎて自分が何を言いたいのかもわからなくなって、結果嫌になって放置していた。しかし最近になってまた悶々としてきたのでやっぱり文章にして吐き出すべきだと思い、ようやく重い腰をあげて執筆を再開することにした。
せっかくの週末、やりたいことは他にもたくさんあったのに、金曜夜からこれを書き始め、土曜日はほぼこのnoteに費やしてしまい、丸一日、本当に朝から晩まで潰れた。そして土曜日では書ききれなくて結局日曜日になってもこれを書いている。映画館に行く前までには書き終わりたいと思っていたけど間に合わず一度中断し、映画を観て家に帰ってきてからまた書き、もうこんな夜なので結局丸二日かかっている。でもこれは、自分のためにいつかは書かなければならないとずっと思っていたから、必要な時間だ。
とはいえやっぱり上手く整理できなかったので、自分語りばかりでクッソ長いし読み辛いです。恐らく過去最長です(なんかどんどん最長記録更新している気がする)。
毎度のことながら誰も読まないだろうなと思いつつ投稿しますが、もし読んでくれる人がいたらごめんなさい。本当はこんなキモい自分語り記事じゃなくてもっと本質的な語りがしたいんだけど、ずっと抱えてきたものだからやっぱりどこかで吐き出しておきたいので、書きます。
注意点(というか予防線)
身体の性
性自認(心の性別)
性的指向(どんな性別の人に恋愛あるいは性的な関心を抱くか)
性的表現(服装、メイク、言葉遣いなど)
これらの性別がそれぞれ全くの別物であることは認識していますが、私の場合は身体以外全部どっちつかずなので、かなりごちゃ混ぜに話しています。(ちなみに身体の性も、本当は染色体検査しないと分からないらしいですね。身体が男でも女でもない人が存在するようです。びっくり。)
もしかしたら、当事者の方が読んだら違和感を覚えるような記事になってしまったかもしれないけど、何卒ご容赦ください。
恋愛感情が理解できない
幼稚園時代に抱いた疑問
幼稚園時代から、周りの女の子たちに共感できないことが多かった。おままごと、人形遊び、かわいい服、メイク、プリキュア、セーラームーン……そういったものにまるで興味がなかった。とはいえ、ただの好みの違いでしかないから、当時はほとんど気にしていなかった。
初めて衝撃を受けたのはバレンタインデーだ。多分年長だった。ある男の子が、10個とか20個とかとにかく大量のチョコを貰っていた。周りの女の子たちがみんなその男の子にチョコを渡している光景があまりにも不思議で、全く理解できなくて、未だにはっきりと記憶に残っている。本当に可愛くない子どもで恥ずかしいが、第一印象としては、正直引いてしまった。
なぜその男の子が人気なのか、その男の子のどこが良いのか、他の男の子と何が違うのか、女の子たちは本当に彼を好きだと思って渡しているのか、ただ人気だから渡しているのか、男の子が好きって何なのか、そもそもなぜ男の子にチョコレートを渡すのか、それに何の意味があるのか……疑問の嵐だった。(まあ、今となってはもう、バレンタインデーも一つの文化、風習というか、私にとっては冬の風物詩の認識です。男性に渡したことはないけど。)
女の子たちはこぞって彼を「かっこいい」とよく言っていたが、全く共感できなかった。卒園後、大きくなってからアルバムを見たら、確かに整っていることは理解できたけど、「幼稚園生にしては出来上がってるなー」としか思わなかった。顔が整っていることの何が重要なのかは分からなかった。
とはいえまだ幼稚園生なので、はっきりと何か疎外感や嫌悪感など抱いていたわけではなく、ふーんくらいの感じだった。
恋愛としての「好き」が分からない
幼稚園の時に抱いた疑問は、大人になれば解決するのかと思っていた。しかし全くそんなことはなかった。齢23にもなって恋をしたことがない。恋愛感情が分からない。恋愛感情の「好き」とそれ以外の「好き」とで何が違うのか分からない。
恋愛なんて、と思っているわけではない。恋愛ものの小説や漫画、映画や音楽に感動することもたくさんあるし、仲の良いカップルや夫婦を見て素敵だなと感じることも多い。だけど、自分が誰かとそういう関係になることは全く想像できない。誰かを恋愛的な意味で好きになるという感情が理解できない。タイプも分からない。
学生時代、大好きなクラスメイトや先生が何人かいた。女子も男子もいた。私にとって、彼らに対して尊敬する部分は違えど、「好き」に違いはなかった。男とか女とか関係なく、人として好きだったからだ。
何なら、男子に対して「好きだな」と思うと、「自分が男だったらもっと仲良くなれたのだろうか」と、自分が女である事実にショックを受けた。もっと話したいとか仲良くなりたいとかは思うけど、ずっと一緒にいたいとか付き合いたいとかそういう感情は湧かない。むしろ恋愛関係にはなりたくなかった。男同士の関係性に憧れがあるから、男女の仲は私の理想ではない。
じゃあ女の子と付き合いたいのかと言われたら、そういう感情も今のところはない。まあ付き合おうと思えば男性相手よりかは付き合えそうな気もするが、そもそも何を以て「付き合う」というのかもよく分からないから付き合う意味も分からない。というかそんな状態で人と交際するなどという不誠実な行動は私の信念に反するので絶対にできない。
当然結婚願望もないし無理だと思う。子どもも欲しくないし(可愛いし好きだけど、近付かれるとパニックになるので苦手)。
私が恋愛感情を知る日は来るのだろうか……。
女性に対する性的関心
「付き合おうと思えば男性相手よりかは付き合えそうな気もする」と前述したのには理由がある。ちょっと恥ずかしい話なのだが、私は女性に対する性的関心が結構あるからだ。(どうか引かないでほしい。同性に対して性的興奮を覚える女性は決して珍しくないらしいから。みんな表立って言ってないだけだと信じて正直に話す。)
身近な女性や女湯等では何も感じないが、アイドル、ネット上の活動者、二次元キャラなどに対して感じる。街中でも生脚出されたらつい目が行ってしまうことがあり本当に良くない。一生懸命逸らす。
最初に自覚したきっかけはAKB48だったと思う。小学生のときAKBが好きで、小3か小4くらいのときに総選挙の写真集を買ったのだが、彼女達の水着姿を見て、明らかに種類の違うテンションの高まりを感じた。付属していたポスターも部屋に飾っていた(当時、父親には困惑された)。
ちなみに男性の身体には興味ないどころか極力見たくないのでAVへの興味はあまりない。それに丸見えよりギリ見えるか見えないかくらいのほうが好きなのでむしろ普通の映画で急に出てくる濡れ場とかのほうが良い。(そろそろ読者が離れていきそうなので黙ります。)
次第に増えた、性による嫌悪感
服装への嫌悪感
明確に嫌悪感を抱いた一番古い記憶は七歳の七五三だ。ドレスやティアラを着けさせられたのが苦痛だった。しばらく経ってからそのときの写真を見ても気持ち悪いとしか思えなくて、自分にとっては一番の黒歴史だ。母が亡くなったらあのアルバムは真っ先に捨てたい。(さすがに三歳の写真は気にならない。撮影当時の記憶もないし、写真の中の姿があまりに幼すぎて、これは自分だという実感が湧かない。)
よく「女性はみんなお姫様(になりたい)」みたいなこと言うけど、それなら自分は女性じゃない。二度とドレスは着たくない。
小学校中学年あたりから、服装への嫌悪感はますますエスカレートした。服を買うときは自然とメンズコーナーへ向かうようになった。「こういう服が着たい」という自己実現的欲求による行動というより、「女性らしい見た目になりたくない」という逃避的行動だった。知らない人からは男の子と勘違いされることも少なくなかった。(今でもお風呂屋さんに行くと、受付の人が男女の人数確認の際に「女性◯人……ですかね?」と自信なさそうに言ってくることが時々あり、それはちょっと申し訳ない。)
女の子の友人から「もっと明るい服着てみればいいのに」「着たら意外と慣れるよ」と言われたこともあった。どうやら私が地味な服を着ていたのは「女の子らしい服が恥ずかしいから」「着慣れていないから」だと思われていたらしい。
小学生の時に言われたその言葉が若干引っかかっていたのか、高校生の時、私服でスカートを購入したことが二度あった。スカートに対する嫌悪感は、単に慣れていないからではないか、と思ったからだ。食わず嫌いは良くないと思い、ロングスカートを履いてみたが駄目だった。どちらも一度履いたっきりで即手放した。今でも思い出したくないしその過去を抹消したい。(今こうして「スカートを履いてみた」と文字に書くだけでも気持ち悪すぎてウッとなる。)
スカートと言えば、問題は制服だ。中学に入る前、母親に「ズボンがいい」と懇願したが却下された。わがまま言わないの、みたいなノリで一蹴された。(私の「男になりたい」という思いはわがままなのだな、と思った。)
制服の採寸に行ったとき、最初スタッフに男と勘違いされて母が慌てて訂正したが、そのままで良かったのに、勘違いされたままだったら男子生徒の制服を着れたかもしれないのに、と今でも時々思う。
高校でもスラックスは選択できなかったのだが、今では女子生徒もネクタイとスラックスを選択できるようになっていた。素晴らしい。そして本当に羨ましい。ネクタイを付けてスラックスを履いていたら、私の高校時代はもっと楽しかっただろうな。
成人式にも私は行かなかった。振袖を着たくなかった。母には「成人式は行かなくてもいいけど、写真くらいは撮ろうよ」と言われた。姉のときも成人式には参加しなかったが、振袖を着て写真を撮ったり浅草に行ったりはしていた。
でも私は撮らなかった。どうしても振袖を着たくなかった。袴やスーツなら、とも思ったけど、写真館の人に何か言われたらと思うと怖くて、考えるのが面倒になってやめた。一生に一度ですよ~とか、せっかくなら~とか、親孝行で〜、とか言われたら本当に嫌だと思った。
もしかしたら、今どきはそういう部分も気を遣ってあまり突っ込まないでくれるかもしれない。だけど、後に就活でスーツを買いに行ったとき「最終面接はスカートのほうがいいですよ」と店員に悪気なく言われたときは本当に心からうんざりした。絶対に履くものかと思ったし、やっぱり成人の写真も撮らなくてよかったと思った。
身体への嫌悪感
当然生理もショックだったけど幸いにも私は症状が軽いほうで、一方で目に見えて分かる胸への嫌悪感はかなり大きかった。できるだけ目立たないようにダボッとした服装を選んでいた。女性用下着をつけることにも強い抵抗感があって、高学年あたりから着け始めたときは本当に屈辱的だった。
幸いにも、大学時代、胸をフラットに潰してくれる補正下着に出会ってからはあまり気にならなくなった。死ぬまで愛用すると思う。良い時代だ。潰しまくっていたからか痩せたおかげかは分からないけど、どんどんサイズダウンしていることに喜びを感じる。(一人暮らし女性は防犯対策で男性用下着を干すと良いなんて話があるけど、私の洗濯物は偽装する必要がないくらい女性らしさが全くない。)
水着が嫌で、5年生以降は水泳の授業に一切出なくなった。毎回わざと水着を忘れて結局中学3年まで全てサボった(幸いにも高校は水泳の授業がなかった)。夏休みのプールも、校門前まで行ってもどうしても引き返してしまって、次第に行かなくなった。最後にプールに入ったのはいつだか思い出せない。あまりにも泳いでいないせいで、今泳げるのかどうかちょっと不安。
写真が嫌いだった
学生時代の写真は可能ならすべて捨てたいくらいだ。思い出があるものは捨てないけど、そこに映る自分の姿は嫌いだ。
昔は写真に映ることが嫌いで嫌いで仕方なかった。お金がなくて、「結べばいいじゃん」と美容室に行かせてもらえなくて、髪が長かった時期もあったが、その時の自分は特に本当に鳥肌が立つほど気持ち悪い。カメラを向けられることが怖かった。自分らしくない姿を形に残したくなかった。クリスマスツリーの前で俯きながらガチ不機嫌そうに映ってる小学生時代の写真とかある。自分のことだけど、こんなに嫌なのに撮られて可哀想だな、と思ってしまう。
だけども髪を短くしてから、ある程度好きな格好をするようになってからは、写真が怖くなくなった。家族と出かけた時に写真撮ろうよといってみんなで自撮りすることも増えた。
真っ赤なランドセルが嫌いだった
ランドセルは姉のお下がりを使っていた。真っ赤だった。ランドセルは今でこそカラフルだが、私の代は、女=赤、男=黒、の傾向がまだ強かった。女子なら水色、男子なら青も少なくはなかった。
まるで女子の象徴であるかのような赤いランドセルは、私にとって気分の良いものではなかった。しかし、お下がりでそもそもがボロボロだったそのランドセルは、3年生くらいのときに自然と壊れた。これで新しいランドセルが買える!と喜んだのも束の間。父親が新しい「真っ赤な」ランドセルを買ってきてしまった。ショックだった。青が欲しかった。
そんな嫌いなランドセルを大事に使おうなんて思えなくて、また壊れればいいのにと思って、いつも乱暴に扱っていた(学校から帰ってくるといつも床にぶん投げていた)ら、安物だったこともあり功を奏して1~2年くらいで壊れた。それ以降はずっと、大きくて真っ黒なリュックで登校した。いつもクラスの男子に「登山?」って言われてたけど、真っ赤なランドセルから解放された私はとても気分が良かった。
「女の子なんだから」というクソみたいな言葉
小学生の時、母の知り合いが母に「〇〇は女の子なんだからもっとオシャレさせてあげなよ」と言ったことがあった。彼女に悪気がないのは分かっている。母はオシャレに疎いというかガチで興味ない人間で冷めてるので、子どもに対する寄り添いが足りてないのは事実だし、要するに母への説教だった。それに対して母は「うちの子はそういうの興味ないから……」と返していた。
私は二人の発言のどちらにも深く傷付いた。
まず、「女の子なんだから」という言葉。好きで女に生まれたわけじゃない。なのにどうしてオシャレしなきゃいけないのか。女に生んでくれなんて頼んでない。
そしてもう一つ、母の「興味ないから」という言葉。それは間違っている。確かに「女の子としてのオシャレ」には興味がなかった。だけども「男の子としてのオシャレ」には興味があった。もっと髪を短くしたい、髪を切りたいと言っても、いつも「こないだ切ったばっかりでしょ」と言って、美容室に連れて行ってくれなかった。洋服だって姉のお下がりばかりだった。私は不満を抱えていたのに「うちの子は興味ない」なんて言葉で片付けられて寄り添ってもらえなかったことが悲しかった。
性別で感じた壁や疎外感
男同士の友情には敵わない
小学生の頃は男子とよくつるんでいた。特に高学年になってからは男子グループの中に混ざって遊んでいて、女子とはほとんど遊ばなくなった。全く女扱いされなかったのが本当に嬉しかったし楽だった。私が足を閉じて座っていたら、当時仲の良かった男子に「内股キモい」と言われ、足を開いて楽に座ったら「そうそう」みたいに言われたことがあった。変な話に聞こえるかもしれないけど、このとき私は「男扱いされている!」と思ってめちゃくちゃ嬉しかった。(電車では閉じますのでご安心を)
小学5、6年のお昼休みはいつも男子達と混ざってサッカーやバスケをやっていた。放課後は友達の家に集まってゲームしながらダラダラしたり、家の前でサッカーとかブレイブボードやったり、公園でバスケしたり。休日の朝は「今から来ない?」と電話してくれることもよくあった。(そういえば、彼らと電話していたときに「電話越しの声低くね?」と言われたこともあって嬉しかったことを今唐突に思い出した。)
それでも、男同士の友情にはやっぱり敵わなくて、疎外感もあった。例えば、彼らはサバゲーごっこが好きだったが、私はエアガンを上手く扱えなかったのでその輪に入れなかった。モンハンやゴッドイーターなどアクション系のゲームも私は下手だった。もちろん、性別というより単純な向き不向きの問題だと思うけど、当時の私は「自分が女だから下手なんだ」と思ってしまって、彼らのことが本当に羨ましかった。悔しかった。
一定以上は近付けなくなる
中学に上がってからは私のメンタルが塞ぎ込んだこともあり、ほとんど話さなくなった。それでも私以外の彼らは交流していた。私だけが、少し前まであんなに話していたのに急に話せなくなってしまった。(その中の一人だけは話してくれていたけど……。)
中学生になると、誰それが好きだとか彼女彼氏はいるのかいないのかとかそんな話も珍しくないから、余計に男子とはつるみにくくなった。私がどう思われるかはどうでもよかったが、相手に迷惑をかけることが申し訳なくて近付けなくなった。
今も職場の上司や先輩に対して同じ気持ちを抱いている。リーダーと話しているとき本当に楽しくて、喫茶店とかファミレスとか飲みとか行ってもっと語り合いたいんだけど(本当に思ってくれてるかは分からないし知る術もないが、向こうも同じように言ってくれる)、十数歳上の既婚男性なので二人では難しい。私が良くても、相手の立場的によろしくない。私が男だったとして二人で行ってくれるかどうかなんて、そんなもんは知らん。知らんけど、でも、どうしても、自分が男だったらなあと思わずにはいられない。性別って不公平だ。
男性への強い憧れ
小学生の頃からずっと「男になりたい」と思い続けてきた。どうしてこんなに身長が低いのだろう。どうして低い声が出ないのだろう。どうしたらもっと男っぽくなるのだろう。声を低くしたくてわざと喉を潰そうと躍起になっていた時期もあった。喉風邪を引いたときは声が低くなるのが嬉しくて、家族がいないタイミングを見計らって普段は歌えない男性の曲を歌っていた。風邪が治って声が元に戻ると悲しくなった。
特に私はおじさんやおじさん同士のコミュニケーションの形にものすごく憧れている。おかしな話だと思われるかもしれないが大真面目に憧れている。おじさんになりたいのだ。
きっかけとしては「ザ・ドリフターズ」と「水曜どうでしょう」の存在が非常に大きいが、特に、水曜どうでしょうに出演するミスターどうでしょうこと鈴井貴之が本当に羨ましい。聡明な大人な面と、馬鹿みたいに子どもな面とが共存している感じがものすごく自分の理想像で、自分もミスターみたいになりたいと何度願ったか分からない。自分が歳を取ってもおじさんになれないことが悲しい。
どうでしょう軍団みたいに、自分もおじさん達と一緒に、超くだらないことを超真剣にやりたい。だけどそれはできない。なぜってそれはおじさん同士じゃないとダメだからだ。おじさん達の輪に女が入ってはもうそれは別物なのだ。だからこれは一生叶わない夢だ。悲しい。就職して職場の上司達を見ているとき、特に飲み会のとき、同じような感情が沸き起こった。ああ、私もいつかおじさんになってこんな輪に入りたいのに。私は歳を取ってもおばちゃんにしかなれない。
くだらない話がしたい
男女で分けて話すのはよくないと思いつつ話しちゃうけど、男のくだらない話と、女のくだらない話って全然違うと思う。女のくだらない話って、結局のところ世間話の延長じゃない?でも男のくだらない話って、もっとくだらなくて、しかしもっと真剣だ。
めちゃくちゃ脱線して申し訳ないのだが、最近読んだ浅田次郎のエッセイ『アジフライの正しい食べ方』における表題の話を引用させてほしい。
孔子は「四十にして惑わず」とのたまい、孟子もまた「四十にして心を動かさず」と言った。
すなわち人間は四十歳でおのれの世界観を確立し、そののちの人生を揺るがずに過ごさねばならぬのである。
しかし齢七十にもなって、アジフライをどのように食べてよいのかわからぬ。しかも大好物であるから、たぶんこれまでに三千尾くらいは食べており、にもかかわらず食い方が決まらぬとは情けない。いったい世の中に、三千回もくり返してスタイルの決まらぬものなどあろうか。
この後出てくるけど、著者は自身の食べ方に迷っているわけではなくて普通に醤油派。醤油信奉者すら名乗っている。じゃあ醤油でいいじゃん。食い方決まってるじゃん。好きに食べればいいじゃん。と言ってしまえばそれまでなのだが、他の人がソースやタルタルを付けて食べている姿を見て、「なるほど、醤油党の私もトンカツやコロッケにはソースをかける」とか「言われてみれば私も日ごろエビフライやカキフライにはタルタルソースを使用している」とか言って、自身の醤油・ソース・タルタルソースの使い分け、そして結局のところアジフライには何が最適なのか、真剣に考察している。(ちなみにこの後の展開も面白いので興味があればぜひ読んでほしい。他の話も全部面白い。)
YouTubeだとこういうやつとか。サムネの吸引力すごい。
あとこれとか。マジで大好きな記事。
「水中で麻雀をやったらどうなるんだろう?」
…麻雀好きなら一度は考えたことがあるかと思います。
ねえよ。
あとオモコロは定番ですよね。こういうのとか。
こういった日常のクソどうでもいいことに焦点を当てて切り込んで真剣に語るって、女性はあんまりしなくない?「どうでもいい」「知らん」で即終了する。私からしたら、芸能人の誰それが結婚したとか不倫したとかそんな話題のほうがクソどうでもいいし知らねーよって感じなのだが……。
兄とは時々、あまりにも中身のない話をすることがある。雑談や世間話とは違う。本当にくだらなすぎてほとんど覚えていないので、例えばこんな話、と説明することもできないのだが、とにかくくだらないことを真剣に語り合うのはすごく楽しい。現状そんな話をできるのは兄しかいない。
母や姉はそういう話にてんで興味がなくて、芸能人が不倫しただの不祥事を起こしただの、職場の誰それがウザいだのそんな話ばかり。
学生時代も、周りの女子たちは世間話、噂話、恋バナ、悪口……といった、現実の出来事の話が多い。一方で男子たちはもっと小学生みたいな話題だった。絶対今思いついただろみたいな夢を真剣に語るとか、回転寿司はどこが一番美味いか議論とか。私は後者に混ざりたかった。てか回転寿司議論は普通にやりたいな。
だいぶ話が逸れてしまったけど、とにかく、男同士のくだらない会話が羨ましいってことです。
自分の本当の気持ちが分からない
どっちつかずな自分に嫌気が差す
自分の性別が女性であることそれ自体より、あれが嫌だこれが嫌だと言いながら振り切ることができないどっちつかずな自分に嫌気が差す。
こんな中途半端な状態なら、むしろ完全に心が男だったほうが楽なんじゃないかと思うことがある。もちろん世の中のトランス男性が楽だと言っているわけじゃないけど、一体自分が何なのか分からない状態というのもそれはそれで苦しい。
就活用スーツだって、パンツスーツを選んだけれど結局はレディースだしパンプスを履いた。本当はメンズスーツが着たかったけど勇気がなかった。証明写真だって、サロンで就活用メイクを施してもらってから撮った。本当は女性らしいメイクだってしたくなかったけど、女性がメンズスーツを着て、メイクもせずに企業にエントリーするのは普通じゃない。何の問題もないことは分かっているが、普通じゃないことをしたらどう思われるか分からない中で、自分の意思を貫ける強さが私にはなかった。(まあ結局、就職後にメンズのジャケット買い直したけど……。)
中学時代までずっと自分を「私」と呼べなかった。できるだけ呼ばないか、「自分」と言っていた。高校生になって初めて「私」と呼ぶようになった。なんだか社会に負けた気分になった。だけどビビリな自分は僕とか俺とか言う勇気はなかった(人からどう思われるかが怖かった)し、そもそも「私」という呼称がしっくり来ないだけで、じゃあ「僕」や「俺」ならいいのかと聞かれても分からないし。一人称の多様さは日本語の美しさの一つでもあると思っているが、「I」だけなら良かったのにと何度思ったことだろう。
ただ、これに関しては、私の好きなにじさんじの男性ライバー、ミラン・ケストレルさんや、これまた私の好きなQuizKnockの志賀玲太さんの一人称が「私」なのを聞いて、とても楽になった。二人のおかげで今はもう自分を「私」と呼ぶことに抵抗はない。仕事以外で自分のことを「私」と呼ぶ男性を見ると何だかホッとする。
クエスチョニングとかXジェンダーとかいう言葉もある。性自認がはっきりしていないとか、定まっていないとか、あえて定めていない人を差すジェンダーだ。そうやって枠組みを作って名前をつけることで救われるというのは事実としてある。だけど私の悩みはそれでは解決しない。そうしたジェンダーを名乗っても根本的なもやもやは消えない。
例えば私がINFJを自称するのも、INFJという枠組みに意味があるわけではなくて、単に自分の価値観と近しい人のnoteに出会いたいからというだけなのだ。目的があって名乗っている。だけど性別に関しては、自分の心の落とし所を見つけたい、自分が本当はどうありたいのか知りたいだけだから、名乗ることにあまりに意味はない気がする。
誰よりも性別に囚われている自分
自分が女性である事実が嫌で、女性らしさを少しでも排除したくて、あらゆる判断基準が「男っぽいかどうか」になっていたときもあった。例えば、私は小学生の頃からすみっコぐらしやリラックマが好きだったが、可愛いものが好きだなんて女っぽい、と思うとあまり大っぴらにしたくない時期もあった。服を買うとき、家具を買うとき、雑貨を買うとき。どんなときも「自分が好きか」ではなく「男っぽいか」を考えてしまっていた。
しかしこれは、私の好きな実況者「けい」さんが、性的マイノリティでもなんでもないめちゃくちゃ普通の男性でありながら大のすみっコぐらし好きでぬいぐるみも持って「かわいすぎる~」と言っている姿を見て、可愛いものが好きかどうかと性別は全然関係ない、と実感できてからは気にならなくなった。
同じ理由で髪型も短くしていた。内心ずっと、ウルフっぽい髪型に興味はあったが、髪を伸ばすなんて女っぽくて嫌だと強い抵抗感があった。学生時代、満足に切らせてもらえなかったことも理由としてはあると思う。もっともっと短くしたいと思っていた。
だけど、職場の男の先輩が髪を伸ばしている姿を見て、男だって髪を伸ばしていいのだから、髪長い=女っぽい、という考えは間違っていると気が付いた。もちろん、世の中に髪の長い男性なんて山程いるけど、学生でもアーティストでもない普通の社会人で、ごくごく身近に長髪の男性がいたことはなかったから、大きな影響を受けた。
性別に囚われたくないと思っていたのに、女性らしさを求められることに反抗していたのに、そんなふうに男っぽいとか女っぽいとか型にはめて考えて行動するなんて、誰よりも性別に囚われていたのは他でもない自分自身じゃないか。そう思って、襟足を伸ばし始めた。
自らの意思で髪を伸ばしたのは、生まれて初めてだった。髪を伸ばすなんて絶対に嫌だと思っていたから自分にとっては大きな変化だった。刈り上げにも純粋に興味はあるので、今後伸ばし続けるか切るかは分からないけど、どちらにせよもう「男っぽいか」は気にしないで自分のやりたいようにやる。
今でも「男っぽいか」という判断軸は完全には拭えていない。自分が本当に好きなのか、男っぽくなりたいから好きだと思いたいだけなのか、自分の気持ちなのに見分けがつかないことばかりだ。自分の本当の気持ちがわからない。だけど、少しずつでいいから、「男っぽいかどうか」なんて性別に囚われた判断軸じゃなくて、「好きかどうか」という「自分らしさ」を大事にできるようになりたい。
自分らしくあればいい
「今」の自分はそんなに嫌いじゃない
以前から色々な記事の中で、「自分のことが丸きり嫌いなわけじゃない」とか「好きな部分もある」というようなことを時々書いているが、そう思えるようになったごくごく最近の話だ。高校までは自分という存在の全てが大嫌いだった。その一番の理由が「性別」だった。
この記事を書いているときも、何度過去の自分に「気持ち悪い」と思ったか分からない。昔を思い出したり写真を見たりするとどうしても「気持ち悪い」という感情が湧き起こる。私は過去の私が大嫌いだ。本当に大嫌いだ。もちろん、良い思い出もたくさんあるけど、当時の「自分」のことを思うと本当に恥ずかしくて、全部闇に葬り去ってしまえたらいいのにとすら思う。
大学生になって、社会人になって、髪型も服装も自分の好きなものを選択してもいいことを知って、ある程度選択できるようになって、ようやく「気持ち悪い」とまでは思わなくなった。だから、「今」の自分はそんなに嫌いじゃない。
性別という枠組みに囚われていない素敵な人達
この記事を書いていて、自分は性自認としてはどちらかといえば男性に近いのだろうかとも思った(少なくとも女性ではないだろう)。
だけどきっと自分は性転換をしたいわけではないと思うし、したとて今の気持ちが解決するわけでもないと思う。ホルモン投与には興味があるけど、声変わりすると元に戻らないので、今のキモい声がさらにキモくなったら…と思うとちょっと怖いし。
だから、自分らしく、という判断軸で生きていけるようになれば、それでいい気がする。自分の性自認がどうなのかとか、そんなことはどうでもいいじゃないかと思えるようになりたい。性別という枠組みに囚われていない素敵な人達を見習いたい。彼らも色々な葛藤や紆余曲折があっての今だ。私もいつか性別という呪縛から解き放たれる日が来るのだろうか、と夢見てみる。
・青木志貴
冒頭でも名前を出したが、本当に救われた存在。元々好きな声優さんだったのでYouTubeもよく見ていたのだが、この動画を見た当時は号泣した。というかこのnoteを書くにあたってちょこちょこ見返していたのだがやっぱり泣かずには見られない。
エッセイ『わがままに生きろ。』にも本当に勇気を貰った。今見たらKindle Unlimited対象になってたから会員の方はぜひ読んでほしい……。
「自分は自分のままでいればいい」とか「性別はグラデーション(男or女ではなく、その間に様々な在り方の性がある)」とか、多くの考え方を志貴くんから教えてもらった。志貴くんの心は男性だし見た目もかっこいいけど、バチバチにネイルしてたりメイクしてたり等、男っぽさに囚われてはいない。自分らしく生きているところがかっこいい。
・中山咲月
元々ジェンダーレスモデルとかジェンダーレス女子とか言われていた中山さんだが、自身がトランスジェンダーであると気付き、男として生きていくことを選んだ。上記の記事で語られている通り、相当な葛藤や苦労があったと思う。
ブログの記事で印象に残っているところを引用してみる。
とにかくジャンルわけしたくないんですよ自分を
だけど他人に説明するのに
これらの単語が説明しやすいから使ってるだけで
できれば言いたくないんだけど
こうでも言わなきゃ広がっていかないからさ...
あともう一つ
自分でトランスジェンダーと言いたくない理由があって
それは、自分がこの考え方を他人に押し付けているみたいで凄く嫌なんです
戸籍は変えてないし
見た目も女なのに
「女扱いしないでくれ」って押し付けるのが嫌なんです
だって無理やん
とても辛いけど女だという事実は変わらないから
(中略)
全て取っ払って
理想をいうと
『性別を意識しないで生活したい。』
これに尽きます
中山さんの苦しみを思うと自分如きが共感してすみませんという感じなのだが、それでもこの太字の箇所、自分をジャンル分けしたくない、女扱いしないでと押し付けたくない、性別を意識したくない、という思いは自分も強く感じている。
・井手上漠
見た目は女性にしか見えないが、生まれは男性。しかし心が女性というわけでもなく、「性別はない」「性別は井手上漠」と宣言している。私も、性別なんて関係なく自分は自分だと言えるようになりたい。
・志賀玲太
志賀さんは、性的表現において性別という枠組みに囚われていない素敵な方だ。一人称は「私」で、喋り方にも品がある。先程もちらっと話したが、自分の一人称が「私」であることに対する引け目が、彼のおかげで和らいだ。
お出かけ。
— 志賀玲太 Shiga Reita (@Petzvaled) August 13, 2024
傘が最強きゃわ。アプレビュートさん。 pic.twitter.com/WmvsMHE1Qr
原宿でゴスロリを買った志賀さんは本当に凄い。てか似合いすぎだろ。
私も、着たい服を着たい。メンズの服屋に入りたい。そもそも服屋苦手だし勇気が出ない。はあ……。
・篠原かをり
99年前に宝塚歌劇団の前身が設立され、17年前に主査である楊逸教授が芥川賞を受賞された良き日に幸せな時間を迎えられました。 pic.twitter.com/h7z6D7r5Ge
— 篠原かをり (@koyomi54334) July 15, 2023
かをりさんは性的マイノリティではないが、結婚式のお色直しでタキシードを着ていた姿がとても印象的だったので紹介する。新婦がタキシードを着るなんて一般的にはなかなかない。常識に囚われない自己表現の形が本当に素敵だ。これを見たとき私は「やっぱ成人のときでスーツか袴で写真撮るべきだったかも」とちょっとだけ後悔した。
普通に私服でスーツ着たいけどビビりすぎてメンズスーツ屋さんに入れない。怖い。でもいつかは着たい。
・Nanasai
女装が趣味の長髪男性サラリーマン。Twitterのbioに「性別・年齢・体型・職業に囚われず好きな格好がしたいです」と書いているとおり、本当に好きな格好をしている。見習いたい。メイド服とかもよく着ているけど、↓みたいな、お兄さんなのかお姉さんなのか分からない感じのがすごく羨ましい。
何言われてもお金貸しちゃいけない類の人種 pic.twitter.com/WejkS92qhX
— Nanasai (@Nanasai7) August 14, 2023
さいごに
ずっと書きたかったテーマなのですっきり。吐き出すことで気持ちが少しは整理できる。感情を俯瞰視できた。時間がかかったけど、書いて良かった。書いてる途中は何度も泣いたけど書き終えたことでより元気になった。(正直言うともっと書きたいくらいだったけど、お腹空いてきたのでこの辺にしておきます。)
さっきIMAXでジュラシック・パーク観てきて最高だったので、今月観たジョーズとE.T.とともに早く感想記事書きたい……。
この後は恵方巻作って食べてから映画観る。金曜夜にビール飲みながら映画観ようと思ってたのにこのnote書いてたせいでビールチャンス逃したことだけは惜しいけど、なんだかんだ良い週末!
最後に一応言っておくと、ここまでグダグダと書いてしまいましたが、普段はそんなに気にしてません。女らしさを強要されたらもちろん傷付くけど、それはどんな女性でも同じ。というか男だって「男なんだから〇〇しろよ」と他人に強要されたらウザいと思う。
自分が普段気にしているのはあくまで自分との向き合い方、在り方、心の持ちようであって、他人から普通に悪気なく女扱いされる分には何も気にしません。それは私がコントロールできるものじゃないし押し付けたくもない。変に気を遣われる方が余程傷付く。
なので普段コメント等くださっている方、どうか重く捉えないでください。何にも気にしないでください。普通に接してもらえるだけでいいです。(長すぎて誰もこんなところまで読んでないかもしれないけど)
もし、こんなところまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。とりあえず恵方巻食べます。お腹空いた……。
2025年2月2日 しろくま