【清水カップ】私のターニングポイント
今回の記事は、敬愛する庵忠茂作名人初の企画『清水カップ』参加記事だ。
テーマは『ターニングポイント』
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さて、俺のターニングポイントはどこだろう。
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人生には岐路がある。
というより、常に岐路に立ち、選択を繰り返しているといっても良い。
だとしても、人生に関わる大きな分岐点というのは、振り返ってみたとき、楔のように打ち込まれているものだし、何らかの光を放っているものだ。
俺にもそんな、ふとした瞬間にあぶくのように心の奥底から浮かびあがるものがある。
あれは多分、小学1年か2年生のことだったと思う。
俺は小2の終わりに生まれ育った岡山から引越したので、何度も反芻した分だけその頃の記憶が濃い。
当時仲の良い友達がいて、ウマがあったのか毎日のように遊んでいた。
彼のうちにはたくさんのオモチャがあり、それはうちにはないものだったので、羨ましかったのを覚えている。
母は俺が幼い頃、一度だけどこかの店でアレが欲しいと駄々をこねたことがあるのだが、買ってやらなかった。それ以来貴方は二度と駄々をこねてものをほしがることはなかった。あの時買ってやってればよかった。と、後悔を口にすることがあったが、俺はそれでよかったと思っている。
そんな性分だったから、うちにオモチャと言えるものはほとんどなかった。
その日も俺は彼のうちで遊んでいた。
夜遅くなったので、そこのうちで晩御飯もいただいたように思う。
その時、うちの母が迎えに来た声がした。多分まだ俺は遊びたかったんだと思う。記憶にあるのは、友人の母が俺はいないと嘘をついてくれて、隠れていた俺は無事に母親に見つからずに済んだということだ。
その後さらに遊んだのか、それとも早々に帰ったのかわからない。
次に記憶があるのはボロボロと泣く母の前で正座をしているところ。
どこに行ってたのか詰問され、素直に友人の家に行っていたこと、母が迎えに来たのは知っていたが隠れたことを答えたように思う。
俺は、泣いている母を見るのがいたたまれず、母の後ろにあったラップトップのピアノを見ていた。
もう二度とこんなことをしないで、という約束は、もしかすると詳細には違う言葉かもしれないけれど、ずっと今も俺の中にある。
今も母を泣かせるような人生は送っていない。