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【「父滅の刃 消えた父親はどこへ アニメ・映画の心理学」読書感想文】


■本書の前身である「父親はどこへ消えたか 映画で語る現代心理分析」を読んでから、日米の映画・アニメを「父性」というテーマを切り口に鑑賞することにより、その作品が描こうとしている真のテーマが理解できるようになった。映画鑑賞をこよなく愛する私にとっては、著者 樺沢先生の映画鑑賞の着眼点も知ることができて、非常に興味深かった。
また、私の映画鑑賞スタイルもレベルアップしたことは間違いない。

今般、「父親はどこへ消えたか」に最新の映画作品の分析を増補した本書「父滅の刃」が発刊され、改めて新鮮な気持ちで読ませていただいた。


■本書を読み、特に共感したのは、ここ最近のディズニーアニメにおける「父性の消滅」そして「男性不要」の風潮の項である。

「アナと雪の女王」では、従来のディズニー映画では定番の「白馬に乗った王子様」的存在は皆無、むしろ登場する男性キャラクターは悪役・意地悪な役・役立たず、とあまりものぞんざいな扱いに、鑑賞当時から少々複雑な思いがあった。

そして、実写版「アラジン」では、アニメ版とは少々異なり、ヒロインのジャスミンの「男性に頼らない強い女性」的キャラクターが強調され、それとは対照的に、主人公のアラジンはストーリーの終盤まで、自分に自信がなく、頼りがいもなく、女性に選ばれる存在として描かれており、アニメ版での冒険活劇としての面白さ、ヒーローであるアラジンの活躍ぶりを歪曲・削除することにより、ジャスミンの「新しい女性」像を作り上げるのにはかなり違和感を感じていた。

たしかに、ディズニーは世界中の老若男女のファンを相手に、夢を売る「ビジネス」を展開しているため、常に最新の世界情勢に敏感で、人種・性別の違い等にも配慮する必要があることは重々承知している。しかし、その配慮が行き過ぎた結果、過剰な「父性消滅」「男性不要」に傾向している感は否めない。
性別を超えて、男女がお互いに尊敬し、協力しながら困難を乗り越えるというストーリーならば納得はできるが、「アラジン」で見られた、「どちらかを上げるためにどちらかを下げる」といった演出は、「女性礼賛」を謳っておきながら「男尊女卑」の考え方と変わっていないのでは、と本書を読んで感じた次第である。

■一方、今回、本書を読み返して、もう一度観直したいと思った映画は「卒業」と「クレイマー、クレイマー」の2本であった。
2本とも、主演ダスティン・ホフマンの代表作である。その理由は、自分が8歳の息子の父親という立場から、「卒業」と「クレイマー、クレイマー」での主人公の成長ぶりに何かしらの親近感が湧いたことと、「父親はどこへ消えたか」を読んだ約3年前とは違う印象を持つのではないか、と強く感じたからである。

■まず、「卒業」(67)を改めて観直すと、本書で述べられた「(ホフマン扮する)主人公ベンジャミンが社会的船出に失敗する映画」という解釈とは別の見方があることに気付いた。主人公ベンジャミンは大学を卒業し、親世代からは将来を嘱望されながらも、退屈な日々を過ごし社会に出ることを拒む。父親の友人の妻ミセス・ロビンソンとの情事の関係も断つことができないベンジャミン。

しかし、ミセス・ロビンソンの娘エレーンの一途さに惹かれたベンジャミンは、親世代からの期待の重圧から逃れ、ミセス・ロビンソンとの関係を清算し、エレーンを追って安住の地を離れる。そして、エレーンを結婚式最中の教会から連れ去ったベンジャミンは、二人してバスに飛び乗る、という有名なラストシーンにつながる。

作中、ベンジャミンが自宅のプールで漂っているシーンが印象的だが、まるで母胎の羊水に浸かっている様にも見え、まさに「母胎回帰」=まだ世の中に出たくないベンジャミンの気持ちを表していることが分かる。そして、自分の母親くらい年の離れたミセス・ロビンソンとの関係を続けているのも、「母親」的存在に甘えたい・守られたいというベンジャミンの未熟さを表していることに改めて気が付く。

また、ラストシーンについても、たしかに将来が全く見えない状態のベンジャミンの行動は浅はかでもあり、ベンジャミンとエレーンの前途は今まで以上に困難が待ち構えていることは理解できるが、これこそベンジャミンなりの「父親ならぬ母親殺し」の通過儀礼であり、「社会的船出」としては失敗でも、居心地のいい「BadMother」からの「卒業」は十分果たした、と解釈することもできる。

ここで興味深いのが、ベンジャミンの成長が「父親殺し」ではなく「母親殺し」である点。実は本作こそ、本書で語られている「毒母」映画の先駆けではないかと気付いた次第である。


■もう一方のホフマン主演映画「クレイマー、クレイマー」(79)。今まで家庭を顧みず仕事一筋だった(ホフマン扮する)主人公テッドは、妻の家出を機に、残された息子とのシングルファーザーとしての生活を通して、仕事人間だった自分の過去を反省し、やがて父性に目覚める。慣れない家事にも息子との連携プレーにより対応、ラストの息子と一緒に手際よくフレンチトーストを作るシーンはセリフがなくても、父子の絆の強さを感じる名シーン。
また、ケガをした息子を抱えて必死で街中を走り続けるテッドの姿も、父性全開の姿として印象深い。


■今年の新型コロナウイルスの影響で、私も在宅勤務の期間が増えた。平日、家にいることが多くなったため、仕事をしながら、家事や子供の相手にも時間を割く必要があり、自分が家事や育児を妻に依存していたことを改めて痛感。仕事を理由に家事や育児にノータッチでは、やがて本作のテッドのように父親失格の烙印を押されていたに違いない。

「父滅の刃」と「クレイマー、クレイマー」のおかげで、「父親の役割」「父性のあり方」について考え直すことも多くなった。そして、子供に少しでも信頼される父親になろうと思った次第である。

特に「父滅の刃」でも書かれている父親と子供との関係性を深めるヒント(・真剣に、そして全力で子供と関わる ・できるだけ、たくさんの時間を一緒に過ごす ・一緒にご飯を食べる・共同作業をする)を意識していきたい。

■先述のとおり、今年の新型コロナウイルスを機に、今までの生活様式や常識が見直されて、一年足らずで新しい生活様式や価値観が世界中に浸透していった。
また、ソーシャルディスタンスにより、家庭・会社・学校・サークル等でのコミュニケーション方法にも選択肢が増え、新しいコミュニティーが生まれている現在。先述のディズニーのように「男性・父性不在」の傾向にますます拍車がかかる可能性がある一方で、新しい形の「父親の役割」「リーダーシップ」、そして性別を問わない「父性」「母性」のあり方が浸透することも考えられる。そして、それは今後の映画やアニメの内容にも反映されることは間違いない。

映画鑑賞をこよなく愛する私としては、引き続き「父性」をキーワードに映画を観続けながら、時代の変化を追いかけて、新しい「父性」「父親の役割」を学んでいきたいと、「父滅の刃」を読み終えて、思った次第である。

■追記
「父滅の刃」では、「ピーターパン」のフック船長(海賊)は「父性」の象徴であると解説されていたが、偶然にも、ダスティン・ホフマンは、1992年のスピルバーグ監督作品「フック」にてフック船長を演じており、大人になったピーターパン(扮するはロビン・ウィリアムズ)と対決している。
「フック」では、ピーターパンがフック船長を倒すことにより、「子供の心を忘れない、よき父親としてのピーターパン」に成長するという、スピルバーグ監督演出による「父親殺し」の結末になっている。
偶然とはいえ、ダスティン・ホフマンのフィルモグラフィーを「父性」をキーワードに語ることができるのも「父滅の刃」を読んだおかげである。感謝。


以上

#父滅の刃
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