見出し画像

【2000字小説】『良い烏天狗』


 薫が今日買った指輪がないことに気づいたのは、ふてくされて布団に入ったときだ。
 ライターのパパの仕事に付き合い日中は面白くもない観光地を回った。そのとき偶然入った土産屋さんで見つけた、色が変わる指輪。身に着けると、真ん中の丸い宝石の部分が、青緑をベースに、紫や青へとじわじわと変化した。不思議で、面白くて「指輪なんて女の子のものだ」というパパの反対を押し切り買ってもらった。
 失くしたってバレたら、パパに怒られる。
 慌てて薫は指輪がいつまで手元にあったか、思い出す。
「あ、お風呂……」
 そうだ、湯船の中で落とさないように、と洗い場に指輪を置いた。その後露天風呂に行って、指輪を忘れて出てきちゃったんだ。
 真っ暗の中一人でお風呂に向かうのは、正直怖い。
 でも……パパは起きないだろうし。
 パパは売店で買った地酒の瓶を抱え込むように、机に頭をついて寝ている。いびきをかくパパを見て、再び薫は怒りがむくむくとわいた。
 パパの嘘つき! 夜、甲虫採るっていったのに!
 そもそも、薫がパパの取材旅行についていくことにしたのも、甲虫がほしかったからだ。本当は、ママと一緒に家にいるつもりだった。でもパパが甲虫を捕まえてやるから、薫も来よう、としつこかったから。つまらない学童に行くよりはいいか、甲虫、ほしいし。そんな気持ちでパパについてきたのだ。
 指輪をとりにいって、すぐ寝てやる。
 はだけた浴衣を適当に着直すと、薫は約束やぶりのパパを無視して、温泉へとむかった。
 夜も遅かったからか、脱衣所も内風呂にも誰もいなかった。
「……ない」
 温泉に到着した薫は泣きたくなった。指輪はどこにもなかった。念のため湯船の中も覗いたが、それらしきものは沈んでいない。 
 露天風呂の方かな。
 ここの露天風呂は、森の中にある。露天風呂から三歩歩けば森の中、という場所だから、明るいときは森林浴もできて気持ちよかったが、真っ暗な今は、闇が広がるばかりで恐ろしい。暗がりで指輪を探すが、見つからない。
「なんで指輪がない……」
「ほう、これはお前のだったか」
 突然、低い女の人の声が響いた。声の持ち主を探すが、誰もいない。
「人間の目では見えんだろう。足跡をたどってこい」
 目をこらすと、岩場に温泉でしっとりと濡れた不思議な形の足跡があった。鳥の足跡に似て、太くて、大きい。その足跡は露天風呂から森の中へと続いている。
 露天風呂の灯りから離れるにつれ、足跡は月明かりではっきりと見えた。
 あ、足跡はここで終わり……。
「なんだ、思ったより小さな童子だ」
 急な突風が薫を取り囲んだ。驚いて目を閉じ、次に開けたときには、目の前に見事な漆黒の濡羽をもった女の人が浮かんでいた。片手には天狗のお面をもち銀色の髪をなびかせている。
「ひっ」
「なにもせん、ただ謝りにきただけだ。朔は良い烏天狗ゆえ」
「あ、謝り……?」
「指輪はわらわのものになった。わらわが見つけたからな」
「え? 返そうと僕を呼んだんじゃないの?」
「まさか。良い烏天狗ゆえ、謝ろうと思っただけじゃ。すまないな、童子よ」
 朔は満足げに指輪を袂から出して微笑んだ。まごうことなく、それは薫の指輪だった。
 パパも、こいつも、なんなんだよ!
「パ、パパもお前も! 大嫌いだ!」
「パパ?」
「パパはお酒で寝ちゃって甲虫採る約束を破るし、お、お前は僕の指輪をとるし」
 泣き顔を見せたくないのに、涙が目にたまる。
「童子よ、お前ではなく朔と呼べ。ところで、酒、とな。うふふ。ならば取引だ。わらわは酒のほうが好く。酒をくれるなら指輪と交換だ。そのパパとやらにも良い戒めとなろう、やるか?」
「え、や、やる!」
 取引成立、と朔は妖艶な笑みを浮かべた。次の瞬間、薫は朔に抱えられ空にいた。百合だろうか。強い花の香りでくるまれる。
「あれがお前のパパとやらか?」
 朔が指差したのは、相変わらず机で眠りこけているパパだった。薫が頷くと、朔は指を動かした。カチャリと窓の鍵があき、窓が開く。
「さあ、とってこい」
 朔に放り出され、薫は部屋の中に転がった。結構な音がしたのに、パパは起きる気配がない。僕はまだ半分以上残っている緑の酒瓶を持って窓に駆け寄る。
「よくやった。朔は良い烏天狗ゆえ、約束を守る」
 朔は指輪を薫に渡し、満足げに酒瓶を見た。
「童子よ、パパをそう怒るな。酒は天狗の気持ちすら変える力がある、人間なんて惑わされて当然だ。明け方頃、この館の裏庭へ行け。お前のほしいものがいるだろう」
「あ、ありがとう……!」
「なに、酒のお礼だ。わらわは良い烏天狗ゆえ」
 朔が翼を一つ動かすと、すぐにその体は森へと消えた。あとには静まり返った森と月があるだけだ。
 薫は興奮した体を押さえつけるように頭から布団をかぶり、指輪を握りしめた。お酒の瓶がないことに気づいたときのパパの顔や、朝露に光る甲虫を想像しているうちに、布団のぬくみに引きずられ、薫は眠りに落ちていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?