【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第28話
諒とアサは誰もいない公園にいた。静寂した公園はひっそりと虫の鳴き声だけ響かせており、遠くからお祭り特有の音が響いてくるだけだ。お祭り特有の人のざわめきの声がまるで別世界から聞こえてきているみたいだった。ここだけ、魔法のようにお祭りの雰囲気を感じさせない。
アサはブランコに座りながらリンゴ飴をかじった。しゃりっと音がなる。リンゴはだいぶ古いようで瑞々しいとはとても言えなかったが、それでも甘いベッコウ飴の味がして、アサは満足だった。ブランコをゆっくり揺らしながら、リンゴ飴をかじり続ける。
「諒、ごめんねーわたあめ持たせて」
諒はといえば、隣のブランコに座りながら、アサのわたあめを持ってじっとしている。わたあめを持ちながらリンゴ飴を食べるのは、どうにも食べにくかったのだ。それに、ブランコに乗っているからどうしても片手は鎖をつかんでいたい。
「いや、いいよ別に」
「本当? じゃあさ、悪いけど、デメキンも一緒に持っててくれる?」
「……お前、あんまいい気になんなよ」
諒はそんなことを言ったが、それでもデメキンを持ってくれた。諒は口先だけだと冷たいけど、本当は優しいのだ。
「……なあ」
「んーなあに? あ、もしかして作戦のためにもう行動した方がいいのかな。今何時だか分かる?」
スマホを巾着から出すのは億劫だったから、諒に尋ねた。諒はポケットから黒いスマホを取り出す。
「八時ちょっと過ぎ」
「んー……まだ大丈夫かな。あ、でも直樹とか見つけ出さなくちゃいけないよね? 諒、先に行ってもいいよ。アサは走ればすぐ追いつくから」
「あ、うん。いや、あ、えっと、あのな。ちょっと待って」
諒にしては歯切れの悪い言い方をした。不思議に思って諒を見ると、諒はアサに背を向けて何やら呟いている。
「……? 諒、どうしたの? 具合悪い?」
「いや、別に大丈夫。ただ、ちょっと待って」
「待つけどさぁ。あ、もしかして、わたあめ食べたい? 今リンゴ飴食べてるから、ちょっとだけなら食べてもいいよ?」
ブランコを揺らしながら諒を見ていると、諒は突然こっちを向いた。
「あのさ」
「うん、わたあめあげるよ?」
「いや、わたあめは後でもらうから。そうじゃなくて」
諒は相変わらず歯切れ悪くアサに向かって話している。
「あのな、安沙奈がこういうの好きじゃないのも知ってるんだ」
「……? 何が?」
意味が分からないのに、諒はアサの言葉を無視して話し続ける。
「でも、俺、何とか今年、安沙奈より背も大きくなったから、言うけど」
「え、何を言うの?」
アサがそう言ったとたん、諒はぴたりとブランコを止めた。キィと軋んでいたブランコの音が止む。
「ごめん、俺……」
「待って!」
慌てて諒の言葉を止めた。諒は驚いたように口をつぐむ。
アサは、その先の言葉が分かるよ。
鎖を持つ手がじっとりと濡れた。
この空気は、須藤先輩のときと同じだ。
あの時は初めてだったからわからなかったけど、これから諒が言うことは、あの時先輩が言ったことと同じ意味の内容だ。空気が、違う。こんなの、アサと諒の間にあった空気じゃない。
「ちょっと、待って。諒の言いたいこと、分かった。でも……」
「……最後まで言うこともさせてくれないのかよ」
ぱっと顔を上げた。諒はこれまでアサの前では見せたことがないほど悲しそうな顔をしていた。その様子に、胸がいっぱいになってこっちが泣きたくなる。
言ったらアサは断るしかないから、それを避けるために止めたのに。断ったら、諒は絶対悲しむから言うのを止めたのに。止めただけでも、そんなに悲しい顔をするの?
どうすればいいかわからなくなって、うつむく。綺麗な水色の浴衣が目に映る。目の横で赤いガラスの蝶がきらめく。
「ごめん、なあ、うつむくなよ」
諒がこんな声を出すなんて、きっと顔はとても悲しそうにゆがんでいるだろう。そんな顔は見たくなかったが、諒をこれ以上悲しませるのも嫌だった。おずおずと顔を上げる。諒と目が合う。
「ねえ……そんな顔しないで」
「俺そんなひどい顔してる?」
無言で頷くと諒は乾いた声で笑った。
「そっか。でも、言うこと言わせてもくれないのは、ひどくねえ?」
「え、違うの! だって、諒が言ったら絶対アサは断らなくちゃいけないから……断ったら、諒は悲しむと思って」
目がうろうろと辺りをさまよっている。どうすればいいか分からない証拠だ。
「じゃあ、言うだけ言ってもいい?」
「……それで諒が悲しまないなら」
小声で呟くと、諒は了解したようにブランコから下りた。アサの横には誰もいなくなる。
「俺、ずっと前から好きだった」
「…………」
諒の後ろ姿だけが見える。アサの見覚えのある背中より少し大きな諒の背中と、公園の電灯が見える。隣には、誰もいないブランコが小さく軋む音を立てている。鎖を持っている手を強く握り締めた。怖くて、どうしようもないほど怖くなった。
「……付き合ってほしい」
諒の声がそう言ったとき、太鼓の音も笛の音も、相変わらずしていたはずなのに、一瞬諒の声しか聞こえなくなった。諒がこっちを振り返って真っ直ぐ見ている。視線を感じながら、アサは諒を見ることが出来なかった。
「……ごめんね」
ぎゅっと一瞬目を閉じた。それから、恐る恐る諒を見る。諒は笑ってこっちを見ていた。
「いーよ、別に。分かってたから」
「……悲しくないの?」
「いや、悲しくないってわけじゃない。やっぱ。でもしょうがないだろ」
諒はさっぱりした顔でそう言った。だけど、アサには諒が泣きそうな顔で笑っているようにしか見えなかった。
どうしてうまくいかないんだろう。
何だか疲れてしまった体をブランコに預けながら、透明で深いところに堕ちていっている気がした。
アサは変わりたくないだけなのに。自分を囲むセカイが変わらなければ、自分だって変わらないで済むと思うのに。諒は気づけば隣にいなくなるし、ユキも最近変なところがある。一人で考えてしまっているような。アサは、何でも話してほしいのに。それとも、アサが思っているほどユキはアサのことを思ってくれてないのかな。
「そうだよ……ユキ」
諒が振り向く気配がした。アサの小さな呟きは、暗い夜の公園に鈴が転がっていくように広がった。
「ねえ、ユキは? どこで待ち合わせしてるの?」
「……もう、《ユキ》かよ」
諒の声色に肩をすくめる。
「なあ、何でそんなお前、有姫ばっかなの?」
「……なんでそんなこと言うの?」
だって、ユキはアサのこと思ってくれてる子なのに。
口に出さずにそう告げると、それが諒には分かったように諒は顔をしかめた。
「俺だって、さっき安沙奈のこと好きだって言ったよな」
「言ったけど……」
それとこれは違う。
それははっきりと分かった。だけど、どう説明したら諒が説得するか分からない。決定的な違いはアサにもない気がした。言葉で表せる違いじゃないのだ。ただ、アサは諒に必要とされるよりも、ユキに必要とされることの方が大切に思えた。諒をひどく傷つけることは分かっていても、そうとしか思えなかった。
アサが困ったように黙り込むと、諒はごめん、と呟いた。
「悪かった。今のなし。ちょっと嫌なやつだった」
「ううん、別にいい。でも本当にごめんね」
諒は何も悪くないのに。悲しい思いをしているのは諒なのに、謝られると胸がいっぱいになってしまう。
「行けよ。俺も兄貴たち探さないといけないから。有姫なら颯と神社にいるよ」
「うん、ありがと……え? え、ちょっと待って」
諒の方をまじまじと見る。諒はアサが何に驚いているのか分からないようで、アサにじっと見られて居心地悪そうにした。
「ごめん、ねえ、今ユキは颯といるって言った?」
「え、ああ。言った。颯と俺で同盟組んでたから」
「……颯ってユキのこと好きなの知ってる?」
諒は口をあんぐり開けてアサを見た。
「……は?! 知らねえよ! え、嘘だろ?」
「ごめん、またねっ」
ブランコから慌てて立ちあがって、歩きにくい下駄で懸命に走る。指の間が擦れて痛い。もう、浴衣を着ているから大和撫子などと気取っている場合じゃない。
公園を抜けて、神社に向かおうとした。しばらく進んで、向かおうとしていた足を止める。
この後、もし神社に行ってもユキとすれ違いになるかも知れない。作戦に間に合わなくなるからって、ユキなら先に丘に行くかも知れない。だったら、アサは神社に行くよりも丘に行った方がユキに会えるかもしれない。
そう思いついたとたん、神社の方向ではなく、丘の方向へと足は進み始めた。下駄に土が少しずつ入り込むのを感じながら、それも気にせず丘に向かって走る。
ユキがいなくなるかもしれない。
そう考えるだけで、背中がすうっと冷たくなった。蒸し暑い暗い夜の闇の中を進むように走っているのに。寒くなんか全然ないのに。
ユキ、アサはユキのことが本当に大切なんだよ。ユキは多分それを、知らないよ。
ごめんね。この間、ユキの質問によかったねって言うよって答えたけど、あれ、もう嘘だ。
やっぱり、そんなこと言えないよ。言わないで、ただ悲しくて泣いて、ユキがアサを嫌いになるほどアサはユキにまとわりついちゃうかもしれない。
それぐらい、アサはユキが必要なんだよ。
ユキに聞こえているように、ユキに届いているように、心の中で必死に叫んだ。だが、ふつりとその必死の思いが一瞬だけ途絶えた。走っている最中、本当に止まることもないほど一瞬、思いが頭を掠めた。世界が暗転する。
アサがユキを必要なのは、独りになりたくないから? だったら、ユキ以外の誰でもいいの?
パッと諒の悲しそうな笑顔が頭の中で鮮やかに蘇る。そして、すぐにそれはゆらゆらと沈んでいった。
違う、諒じゃ、だめ。諒は違うよ。
太鼓の音が近くに聞こえてきた。露店が連なる道のもう一本向こうの道に、丘へと繋がる道がある。そこを目指して、頭の中は自分の思いが何なのか分からないまま、とにかく進む。
露店が続く道に入ったとたん、人が多くて身動きできなくなった。走ることを諦め、人の合間をぬうようにして目的地まで進む。赤いちょうちんで照らされたやけに明るい道を進みながら、ふと目をやると、さっきのアクセサリーを売っているお店を見つけた。小さな女の子たちが嬉しそうにアクセサリーを見つめている。お互い、小さな手を握り合いながら。その姿が、幼い頃のユキとアサに重なった。目が奪われる。
分かった……なんで忘れてたんだろう。
女の子たちの姿は一瞬で人の波に飲まれたが、アサの頭の中にはその一瞬で今の光景が焼きついた。
アサはユキが必要で、ユキもアサが必要だった。だから、アサはユキじゃないと駄目なんだ。
だって、アサの手を初めに握ってくれたのは、ユキだった。
赤く燃えるような異様な色をした海と、真っ黒に見えた巨大な山。二つの怖いものに挟まれながら、風も吹かない夕凪のとき。だんだんと暗くなり、真っ黒い影がするすると伸びていく時間。先に歩いていってしまう咲姫と直樹。走っても走っても追いつけない孤独。迷子になってしまったかのような怖さ。ついに、足が止まってしまったとき、アサの手を握ってくれたのはユキだった。あたしがいるから、というように手を繋ぎ、アサもいてよ、というように手を握る。初めにそう訴えてくれたのはユキだった。
もしかして、アサから手を離しちゃったの?
離したつもりはなかったけれど、事実、ユキとアサの気持ちはこんなに今離れている。ユキがいなくなってしまうと心配していることが証拠だ。
昔なら、心配することだってしなかった。どこにも行くわけなかったから。疑うということすら知らなかったから。だけど、今は違う。アサは昔のアサとは違うのだ。
泣きそうになりながらも、必死に下駄で痛む足を丘の方へと走らせる。今のアサにすることは一つしかない。
アサからもし手を離したなら……ううん、離してなくても、今手が離れていることに気づいたのだから、アサのすることは決まっている。もう一回、ユキの手を繋ぎに行こう。ユキは今、あの小さな頃のアサのように暗いところで立ち止まっているかもしれない。寂しくて泣いているかもしれない。そこから引っ張り出せるのは、手を繋いでもらったアサだけだ。