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日本の教育でディスカッションが無意味な理由


概要

適切な事前のインプットがないとディスカッションは意味がない。

はじめに

日本では、知識の入力と、議論の過程での出力がトレードオフのように思われているが、その理解は間違っている。

東京大学と世界TOP10の米国大学の両方の授業を受けて感じたのは、ディスカッションという授業内の活動は、適切なインプットがあって初めて意味を持つということだ。

参考:勉強の科目を2分する理解方法については以下記事が関連しています。

ディスカッションとは

目的

そもそもディスカッションの目的は何か。一般論として、日本の教育のデザインにおいて目的が十分に議論されないまま、具体的な内容の検討に入ることが多い。今回のテーマも例に漏れず、何のためにディスカッションをするのかを明確に定義できている教育者は少ない。

私が考える目的は、知識の体系化と論理的思考力の訓練である。

ディスカッションとは、他者からの予想外の入力によって自己の知識体系が組み直される活動である。それと同時に、その他者からの入力に対して、自己の知識体系を用いて、言葉を使って自己の思考を出力する活動でもある。

そのような活動の中で、自己の知識は「教科書内容の暗記」を超えた「ネットワークの理解を伴った体系の把握」となる。なぜなら、ただ暗記しているだけの知識では、相手の発言内容を理解したり、それに対して自己の反応を言語化することができないからだ。

それを踏まえれば、当然、「土台となる知識」がなければ意味がない。

具体例

ここまでの議論を具体例を用いて説明し直してみよう。例えば、ある大学のアメリカ政治の授業でディスカッションを行うという設定を考える。学生は、「憲法を一箇所改正するならどのような改正を行うか」を議論するとしよう。

事前の適切なインプットがあり、教科書で習った三権分立の基本構造や合衆国憲法の基本原則の理解があれば、相手が仮に「国会を下院のみにして上院を廃止する」と主張したとき、「その改正は上院の設置理由である各州の権利保護という役割を損なうことになり、民主主義の原則に照らして適当でない」と反論できる。それに対する相手の反論を踏まえて議論はさらに深まっていくだろう。

しかし、事前のインプットなく同じ議題が与えられたとしても、そもそも憲法が何をどのように定めているかを知らないので、「政治の教育を増やして投票率を上げる」などの浅い提案と、的外れな批判しかなされないだろう。簡単な言葉で言えば、感想の述べ合いと自己満足で終わると予想される。

このように見れば事前のインプットの重要性は明らかであるが、実際の教育現場でこのように適切な入力が行われてからディスカッションの活動に移る場面は極めて少ないように感じる。

実際の学習現場の比較

では、米国大学ではどのようにインプットとアウトプットのバランスがとられているのだろうか。それは、日本の大学と同じレベルのインプット量を確保した上で、アウトプットを上乗せしているのだ。言い換えれば、単純にアメリカの方が、両国の同レベルの大学を比較したときに、学習にかける時間が多い。米国の大学生が勉強で忙しいことは比較的よく知られた事実かも知れないが、そのような理由が一つにはある。具体的には、授業のための事前課題が非常に多いのだ。

その点、日本では学習の時間を一定のままでインプットを減らしてディスカッションの授業を増やそうという方向の議論になるので、全く的外れな結果に終わる。


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しろいくろ (東京大学から米国留学)
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