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結局、教養とは何か。どうやったら身につくのか。
概要
教養とは、複雑な世界を受容し、そこから得た知識を応用する能力だと考える。
前提: 教養の辞書的定義
前提として、一般的な「教養」の定義を確認しよう。
小学館のデジタル大辞泉には「学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力」とある。
大雑把には、教養とは「精神の豊かさとそれに付随する能力」と定義されているらしい。
しかし、漠然としすぎて説明したことになっていないように思う。
そこで、以下、私なりの解釈を含めつつ「教養とは何か」を考えていく。
主張: 教養は2要素から構成される
私は、教養とは以下の二つの要素から構成されると考える。
複雑性を受容する能力
知識を応用する能力
理由
なぜこう考えるか、思考の順を追って説明していこう。能力を実際に使う順番とは逆なので、念のため注記しておく。
第二要素「知識を応用する能力」
まず、教養とは「知識」ではないと考える。つまり、たくさん雑学を知っているからといって、それは「教養がある」とは言えないと思う。ただ物知りなだけだ。
高校生クイズや東大王に出るような人たちは、競技としての「クイズ」を日々勉強し、練習している。だから、幅広い範囲の雑学をたくさん知っている。しかし、それは教養とは言えないと思う。教養のイメージには、冒頭の辞書からの引用のように「精神の豊かさに付随する能力」という要素が含まれているが、「物知り」にはこの要素が欠けているからだ。
では、「知識」でないなら何か。それは「能力」だと思う。
つまり、「たくさん知っている」だけでなく「知っていることを運用する力」が、教養の中核にあるのではないか。
わかりやすく言えば、未知の問題に出会ったときに、自身の知識を動員して仮説を立てられる力とも言えるだろう。
ちなみに、当然だがこの力は社会で必須な能力だ。
第一要素「複雑性を受容する能力」
そして、その前提となる能力として、「複雑な世界を受容する能力」も不可欠だと考える。つまり、様々な要素が絡み合う世界を、単純化した形でしか理解できなければ、上述の「知識の運用」は難しいと考えるのだ。
ちなみに、情報を情報のまま暗記しているだけなのも「世界を単純化した形でしか理解できていない」状態に含まれる。「全て強弱なく暗記する」という単純化の仕方だ。
つまり、「複雑な世界を受容する能力」は「多様な情報と、それを貫く本質をまとめて把握できる力」を意味する。
例えば、「第二次世界大戦はヒトラーが暴れたから起きた」としか理解できていない人と、前提となる産業革命や世界恐慌から、各国の思惑やアルザス・ロレーヌ問題まで理解した上で「第二次世界大戦は先進国と後発国のパワーバランスの変化が原因」と認識している人では、知識の応用力に差があるのは当然だろう。
前者の立場からは、ロシアのウクライナ侵攻を「プーチンが暴れただけ」としか捉えられないが、後者の立場からは「今回の問題もアメリカとロシアのパワーバランスの変化が原因ではないか」と仮説を立てられる。
このように、教養の中核には「複雑な世界を複雑なまま受け取る能力」と「得た知識を他の場面で応用する能力」があると私は考える。
帰結としての「精神の豊かさ」
そして、この帰結はきちんと「精神の豊かさ」になる。なぜなら、複雑な世界を複雑なまま理解できれば、自分の信じる立場を主張するだけでなく、様々な立場や見方を受け入れる深さが出てくるからだ。
余談だが、だからこそ教養がある人、さらに大雑把に言えば「頭がいい人」は、物事を簡単に断言しない。何でもかんでも自分が全て正しいかのような物言いの人は、単純に頭が悪いか、詐欺師であることを疑った方がいいだろう。
教養の磨き方
最後に、教養の磨き方を考えてみよう。
第一要素「複雑性の受容能力」
教養の第一の構成要素である「複雑性の受容能力」は、以下の方法で鍛えられるだろう。
勉強
ある程度の強制力のために、自分の理解力を超える理論と、それに付随する大量の情報を理解・記憶する必要がある。勉強は良い訓練だと思う。読書
他者の頭の中を300ページ程度にわたって覗き続けなければならない。自分以外の世界に閉じ込められて、歩き続ける経験は、複雑性の受容能力を高めるだろう。
参考: 上の能力を鍛える勉強法については、以下で部分的に記述している。
第二要素「知識の応用」
また、教養の第二の構成要素である「知識の応用」は、批判的な思考で鍛えられると思う。
批判的な思考とは、「なぜそうなるのか疑ってみる」ということだ。これは、必然的に深い思考を必要とし、その答えはネットや本には転がっていない。自分で考えて、「複雑性の受容」の過程で得た知識体系を用い、答えを探さなければならない。だから、必然的に「知識の応用」が求められる。
例えば、「なぜ私は働かなければならないのか」考える。「親や世間が喜ぶから」は答えになっているだろうか。思考の過程で、ゲーム理論や『ソクラテスの弁明』にヒントが転がっていないか考えてみる。そんなことを半年くらい繰り返すと、暫定的な仮説が浮かび上がってきたりもする。
「ああでもないこうでもない」と唸る中でしか、応用力や思考力はつかないと思う。
そして、思考のヒントは様々な分野に点在しているからこそ、幅広い知識が当然必要なのだ。物知りであることが教養と全く違う世界の話をしていることが、少し実感を持って理解できただろうか。
余談だが、こういうことを実践するのが大学学部の「一般教養」だったのだが、各ステークホルダーの無理解によって、今では学部教育からほぼ姿を消してしまったことを残念に思う。
参考: 批判的な思考が何を意味するかは、以下で詳述している。
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