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教育はOSのインストール

はじめに

教育は何のためにあるのだろうか?

勉強をする側の視点からの意義については以下の記事で考えたが、簡単にいうと、社会に出る前の頭の訓練だと考える。

主張: 教育はOSのインストール

では、教育をする社会の側から見ると、どのような意義があるのだろうか。

私は「行動の型」と「知識」をインストールするのが教育だと考える。

これを比喩的に「入力に対する定型的な出力の方法」と「最低限の基礎情報」を備えたOperating System (OS)と類似だと表現している。

理由: 教育は社会に利益がある

ストーリーで考えよう。

日本に、社会全体として子供を教育する制度ができたのは明治時代からだ。それまでは、寺子屋などでの私的な教育はあっても、社会的に制度化されたものではなかった。

つまり、歴史的に考えれば「大人がこぞって子供を学校に通わせて教育を受けさせる制度」は特異なのだ。

ではなぜそんな制度がここ200年程度で急速に普及し、子供に教育を受けさせることが国民の三代義務の一つに数えられるまでになったのだろうか。

それは、社会にとって利益があるからだろう。

それも、経済的利益だ。教育の費用を税金から支払っても、より大きなリターンがあるくらいお得なのだ。

利益の2つの経路

社会全体にとって教育を子供に受けさせることは、二つの意味で経済的利益に貢献する。

1. 行動の型

第一に、特定の行動の型を定着させられるということだ。

子供が社会に出たとき「こう行動してくれたら嬉しいな」という行動を刷り込める。

例えば、子供は授業中に騒ぐと怒られる。これは「偉い人の話は静かに聞かなければいけない」という考えを子供に定着させ、会社員になった時に、上司に逆らわない大人を作り上げられるだろう。

2. 知識

第二に、社会で必要な知識を定着させられる。

例えば、人文・社会科学の中から「社会」という科目として、地理・日本史・世界史という3つが集中的に教えられている根拠はないように感じる。教育学や哲学でなくてこの3つが選ばれなければならない理由はないのではないか。

つまり、教える内容は政府が何らかの意図を持って形成してきた恣意的なものだと言える。

子供が企業に入った時に、教育学の理念や教育史を知っていることよりも、世界の歴史を知っている方が利益に貢献できると考えられているのではないか。特に現代ではパレスチナ問題などの経緯を知らずに他国の人と話すと、意図せず誰かを攻撃し、企業の利益を損なうことになる場合もある。

実際、産業の発達による社会の要請の拡大で、大正時代に大幅に大学の数が増加した。単純化すれば、ただ一つのことを繰り返すのではなく、ある程度自分で考えて動ける「行動の型」と「知識」を持った人が求められたのだろう。

おわりに

ちなみに、社会学者デュルケームは、教育を以下のように定義した。この考え方は、上述の思想と類似の視点を持っていると考える。

教育とは、社会生活においてまだ成熟していない世代に対して、成人世代によって行使される作用である。
教育の目的は、子どもに対して全体としての政治社会がが要求する一定の肉体的、知的、道徳的状態を子どもの中に発現させ、発達させることにある。

デュルケーム『教育と社会学』参照 (一部改変)


参考: 学生の側で最大限意味のある勉強をするためには


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しろいくろ (東京大学から米国留学)
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