お人形と暮らして一年経った徒然

人形はいい。歳を取らず、感情がなく、静かで無機質だ。部屋が寒くても凍えたりしないし、ご飯がなくとも飢えたりしない。毎日同じ服を着せていても「飽きた」と文句を言うこともない。放っておけば埃を被ってしまうが、それについて所有者に抗議することも無く、彼らは黙って状況を受けいれるだけだ。部屋の隅から、硝子の瞳で私たち人間が生活しているさまを、じっとただ見つめている。空洞のからだは、人間が自分勝手に愛情をぶつけても、ただただそれを無限に受け入れてくれる包容力がある。だからこそ、安心して彼らを愛すことが出来る。心を委ねることが出来る。少なくとも私はそうだ。

私は人形愛好家だ。今、三体の人形(それと一体の作家製ヘッドオブジェ)を所有している。その他、Blytheやプーリップといったファッションドールと呼ばれる人形も数体いるが、今回は"創作人形"と呼ばれる人形についてのみ焦点を当てていく。

人形を好きになった切っ掛けは何だったろうか。物心ついた時から、私は人形というものに興味があった。例えば、工芸展示などの際に売られている、創作人形。例えば、雛祭りの時期になると出てくる雛人形。リカちゃんやバービーといった玩具の側面も持つ人形も"玩具"として幼少期に触れていたが、それとは別に、恐らく"工芸作品"として作られた人形というものに興味を示していた。特に覚えているのは小学生の時。母親が近所の弁当屋で働いていた際に、「仕事をしている間、少しここで時間を潰して待っていて」と連れてこられたショッピングモールでは、ちょうど時期的に雛人形の展示販売が行われていた。文房具屋に、服屋、本屋やCDショップが立ち並ぶなかで、私はそんなに広くもない雛人形のブースに母親が迎えに来るまで約二時間半ほどの間、ずっとずっと飽きることなく居座っていた。お雛様の細い目、煌びやかな着物。市松人形の丸い顔、愛らしい黒い瞳に目を奪われていた。当時の私には、「人形を好き」という自覚は無かった。好きというよりは、ただただ彼女達の持つ素敵な魅力に未だ十歳ほど、工芸美術の何たるかを知らぬ私は「魅せられていた」。

私が本格的に人形を「美しい」と感じたのは、たまたま立ち寄った書店で、恋月姫の画集を見かけた時であった。この頃、私は絵を描くのが好きな中学生だった。好きな漫画のキャラクターを描いたり、漫画っぽいラクガキをして楽しんでいる、ちょっとオタクくさい、どこにでも居る地味な田舎の中学生だ。恋月姫という作家の作るビスクドールは、若干十四歳ほどの田舎娘にも理解ができる程の妖艶さと美しさを放っていた。何となく幼い頃から人形というものが気になっていた私であったが、恋月姫人形は、私にとって人形を初めて「美しいもの」と認識した衝撃的な出会いであった。

私が人形の魅力というものに明確な"執着"を示すようになったのは、それから更に時が過ぎ、十九歳の頃。ハンスベルメールとの出会いだ。偶然、十四歳の頃に恋月姫と出会った書店で、今度はハンスベルメールの画集を見つけた。中学生の頃は恋月姫の画集を買うだけの手持ち金がなく、ただその場で本を卑しく立ち読みするしか無かった私であったが、十九歳の私は、ハンスベルメールの本を買うことが出来た。(そして、現在に至るまで、その本を大事にしている。)

ハンスベルメールというのはドイツのシュルレアリスムアーティストで、所謂今の日本の創作人形の原点とも言うべき作家だ。彼の作る人形は、作家の持つ倒錯的な少女へのエロティシズムが痛々しいほどに投影されており、見る者を圧倒させる。ハンスベルメールとの出会いは、私に人形という創作物について、真剣に向き合う切っ掛けを与えてくれた。私にとって人形とはなんなのか。小さな頃、雛人形に何故あんなにも心惹かれたのか、思いを馳せた。中学生の頃、デパートの催事展示で、工芸品展示をしていた時、(自覚はなかったが)あまりに熱心に人形ばかりを見詰めていたらしく、声をかけてくださった人形作家さんがいた。(名前を失念してしまったが、人形教室を催していると仰っていたことは覚えている。)その方に、球体関節人形の仕組みを教えて貰ったり、貴重な人形の話を教えて貰ったりしたのだが、あまりに熱心に聞くので、「中学生で人形の良さがわかる子には初めて会った。とても人形が好きなのね。」と言われたことを思い出した。当時、まだSNSは普及しておらず、皆が個人のHPやブログ等で発信していた時代だ。積極的に調べでもしない限り、ぽろっとタイムラインに流れてきて、偶然有益な情報に出会えるようなご時世でも無かったその頃、人形のことを教えてくれるような人は貴重だった。あの時、あんなに人形作家さんの話を聞くのが楽しかったのは何故なのか。ーーーやはり、私は人形という創作物が"本当に好き"なのだ。と、この時に強く自覚した。私と人形が心の中で明確に結びついたのは、ハンスベルメールとの出会いであったのだ。

その後紆余曲折あったものの、私は美術大学へ入る運びとなった。入学前、私はそれまで趣味としていた絵を学ぼうと考えていたのだが、入学してすぐ、ふと「人形を作ってみたい」と強く思うようになり、彫刻コースへの加入を果たすこととなった。入学早々、彫刻の先生に「此処で人形を作れますか!?」と意気揚々と訪ねに行った。ーー答えは「No」だった。当たり前の話だが、彫刻と人形は違う。どちらも違う工程で作られているし、そ もそも彫刻は「ファインアート」であることに対して、人形は「工芸品」であるので、ジャンルが全く違う。彫刻の先生が人形の作り方を教えることは不可能であり、ゆえに、人形は独学か、専門のカルチャースクールに通って技術を習得する必要があるのだと言われてしまった。………まぁ、それはそうだろう。しかし、教育の可否とは別に、先生方は人形創作について決して否定的ではなく、寧ろ肯定的な態度を示してくれた。卒業後、人形作家になった人がいるらしい。卒業制作の際にも、立体造形物として人形を作る学生は何人かいる。人形制作のプロセスについて、教えを施すことは出来ないが、人形も「人体表現」であり「嗜好品」でありながら、「美術品」としての側面もある。「あなたが人形を作れるようになるために必要な立体的な人体表現の基礎をここで学べばいい。」と言ってくれた。立体物を作るのは、正直得意ではなかったが、理解のある先生方に励まされながら、私は大学で人体表現やアートの理解を深めていくこととなった。

学生当時の私は、学校が都心の方にあったので、通学の合間に東京近郊で気になる創作人形展示等を沢山見てまわり、アウトプットをしまくっていた。当時、私にとって人形を見る感覚というのは「美術館へ行って絵画や彫刻を鑑賞する」ということと殆ど同義だった。気になる作家がいれば、ギャラリーの物販で画集を買い、たまにサインを頂いたりもする。当時、人形との触れ合いは、それだけで十分だった。ハンスベルメールの芸術的人形との出会いは、私の中で人形というものを「芸術品」として昇華させていた。そして、いつか私も、ものづくりの世界に片足を突っ込んだ人間のひとりとして、人形をこの手で生み出してみたい。…そんな思いに駆られていた。

大学卒業後、一年半程の月日を経て、アルバイトで貯めたお金を握りしめて、私は人形学校へと通い始める。日本の創作人形作家として代表的な四ツ谷シモン先生が手掛ける「エコールドシモン」への入学だ。ひとえに人形と言っても、(粘土やビスク、樹脂が一般的)様々な素材で作られているが、此処では日本人形に多く用いられる、木塑(木の粉に粘土を練り合わせたもの)を使用した人形制作を主たるものとしていた。人形作りは思った以上に根気のいる作業だったが、約一年ほど掛けて、自分の人形が完成した時は達成感が溢れた。ーーーものの、その後、仕事のストレスで人形制作どころではなくなり、数ヶ月程お休みしていた矢先にコロナ禍で教室が廃業。(現在、シモン先生以外の講師の方が新設エコールドシモンを立ち上げてくださったが、その後転職やらを経て、もうここずっと行くことが出来ていない。またいつか通いたい…。)そして、とある作家さんのワークショップにも参加し、人形をもう一体作っていた。こうして私は遂に憧れていた人形を自らの手により作り出すことに成功した。……しかし、どことなくまだ自分の中で「満足」は出来ていなかった。嬉しいことには嬉しいが、何かが違う。しかし、その「何か」を明確に突き止めることは出来ず、時間は流れていった。

2021年の10月下旬。私が「人形」と自分の関係性にひとつの答えを導きだした切っ掛けは、人形屋片岡佐吉氏主催の人形展示「マリアの心臓」での事だった。マリアの心臓は銀座にあった時に何回か足を運んだ展示会で、片岡氏が所有する和洋さまざまな貴重な人形コレクションたちが、独特な展示空間でアーティスティックに演出されている。人形(特に恋月姫や天野可淡)が好きであるのであれば、是非とも一度は足を運んでほしい人形専門のギャラリーだ。この時の展示は東京都にある、旧片岡佐吉邸……つまりよくあるアートギャラリーや以前銀座にあったようなビルの中ではなく、一般の民家の中で行われた。普通の人形展示とマリアの心臓の明確な違いといえば、前者は人形をギャラリーの中でそれぞれただ立たせたり、座らせたりしながら展示していることが多いのに対し、マリアの心臓はBGM、照明、その為大道具小道具等を巧みに使い、展示空間そのものがお人形を彩るための演出装置として上手く活かされた独特な展示技法を使っている事だった。 険しい坂道を登り、住宅街の中を突き進んでいくと、坂の上に聳え立つ一軒家のマリアの心臓の会場がみえた。入場料金を玄関で払い、普通の家に上がるように靴を脱いで、中へと入る。広々としたリビングダイニングには、天野可淡のオブジェや人形や絵が展示されていた。窓からは坂の上から見た東京郊外の街並みが見下ろせる。赤い絨毯が敷かれた階段には日本人形が一段一段、まるで客人を上へ上へとと手招くかの如く立っていた。部屋の窓辺、ベッドマットの上、棚の上、屋根裏部屋のなかに人形がぽつりぽつりと佇み、それぞれが静かに、穏やかに存在を主張していた。後に、この一軒家で行われたマリアの心臓の展示は私の人形道に新たな風を吹かせることとなる。

忘れもしない、2021年10月27日、15時過ぎ。玉川学園前(マリアの心臓最寄り)の駅のホームで私は電車を待っていた。ぽけーっと間抜け面を下げながらあの人形もよかった、これもよかった、と展示の余韻に浸っていた。家までの帰路、電車に揺られながら、私は強く考えるようになった。

「人形が、欲しい。」

人形は自作のものが既に二体いる。ならば何故そんなことを思うのか。作っただけでは満足出来なかったのは何故なのか。私はマリアの心臓へ訪れたことで確信を得た。先に言ったように、銀座マリアの心臓の会場はビルの中であった。だからこそ、当時、私は迫力のある人形展示を観ても、人形達が犇めき合う会場の中で紅茶とケーキを頂いても、気付くことは出来なかったのだろう。それまでの私にとって、ギャラリーでお行儀よく展示されている人形作品は、美術館に展示されてある絵画や彫刻と同義であった。絵を描く人間には心当たりのある体験だと思うのだが、例えば良い絵を観た時、「わぁ、綺麗な色使い。」「こういうタッチで描く技法もあるんだな。」「この色と色の組み合わせ、自分はあまり使わないけれど、とても綺麗に見えるんだな。」等という作品観察の仕方をついしてしまわないだろうか。絵の技法など知らなければ、ただただ「綺麗な絵」「どこか不思議な魅力がある」で終わり、言語化し得ない感動を胸の内で燻らせて会場を出れるのに、自分が知識を持ってしまっているが故に、「マチエール」「色使い」「構図」「タッチ」「パース」だなんてことばかり考えて、自分の胸に湧いた感動をそんな言葉で安直に片付けてしまう。美大に入り、技術を学び、人形について独自に調べ、そのうえ人形を自分で作りあげた私はもう、気付けば十歳の頃、雛人形たちの前から一向に動くことのできなかった私とは大きく別の世界にいた。人形が大好きだ。大好きだから素材を見る、目は硝子か、描き目かをチェックする。ボディの表現の細やかさを見る。メイクを見る。服を見る。展示の仕方を見る。気になったら画集やポストカードを買って、いつでも作品を眺められるようにする。それで"人形"というものを知った気になっていた。ーーーけれど、マリアの心臓で私は私の中での認識の違いを目の当たりにした。人形はそれで終わりじゃあなかったのだ。人形というものは、本来、ギャラリーでカッコよく展示するために創られるものではない(一概には言えないが)。誰かの手に渡り、大切に愛されることが、多くの人形が目指しているゴール地点なのだ。旧佐吉邸のマリアの心臓で私が気付かされたことは、人形は家に在るべき存在であるという事実だった。家の窓辺や屋根裏部屋に佇む人形達のあの美しさは、同じ人形や小道具を使ったとしても、ギャラリー展示では引き出すことは出来ないだろう。やはりマリアの心臓は凄い。会場そのものが、人形を美しく見せるための装置として機能していた。私は確かに自作の人形を保有しているし、大切に可愛がっているが、あくまで彼らと私の関係性は「作者とその作品」だ。いち人形愛好家として素材だとか、目の種類だとか、着彩方法だとか、そんなものを抜きにして愛すことの出来る「自分だけのお人形」を欲しいと強く願った。そして、その人形を家に飾って、観察してみたり、髪の毛をつついてみたり、抱っこしたりしてみたかった。悲しい時に見詰めあったり、話し相手が居ない時に、寄り添ってくれるための、自分だけの人形が欲しいと思った。そのためには、(言い方は悪いが…)発泡スチロールで芯を作り、その上から粘土で身体をかたちどり、目玉も入っていない、パーツも組み上がっていないバラバラ死体のような状態から人形を見るわけにはいかなかった。だって「友達を作りたいからまずは人間の子供を作らないと!」とはならないじゃあないですか。上手く言語化が出来ないが、つまるところ、私には制作過程や作品となるまでの苦労を知らず、ただただ純粋に愛される為に常に傍に寄り添ってくれる人形、というものが必要であった。「作者とその人形」ではなく、「鑑賞者と作品」でもなく、もっと単純且つ深い関係性、「わたしの人形」と呼べるものが欲しかった。そして、その人形に自分の家の臭いを移し、自分の家の家具に触れて、安心して腰を落として欲しかった。

マリアの心臓での経験を経て、私は直ぐに自分だけの人形を見付けようとした。今の時代は私が中学生の頃とは全然違い、実に便利だ。スマホ一つでありとあらゆる情報が手に入る。ネット上で売りに出されている人形ひとつひとつの画像をチェックしていたとき、私は「この子だ。」と思える人形との出会いを果たすこととなる。

2021年11月4日、展示から僅か一週間。本当はもっと期間を置いて、じっくり考えようと思っていた。けれど、我慢ができなかった。早く会いたかった。早く決めたかった。こういうのはタイミングが大事だと信じているから。人形のお店に来店予約を入れた。前日には家族と揉めた。「明日人形を連れて帰る。」と宣言して、偉い猛反対を食らった。「そんな高価で繊細なものを買ってきて、大事にできるのか、埃被って終わりだろう。そもそも置き場所はどうするつもりだ。」なんてことを言われてしまった。けれど私の意思は強く、今更家族に反対されたからと言って、自分の心は戻れる場所にはもう居なかった。連れて帰るったら、連れて帰る!そう言って私は家族に啖呵を切ってその日を終えた。予定時刻通りに私は店を訪れた。小さな店内のなか、たくさんの人形が展示販売されていた。部屋の中は甘いアロマの香りで満ちていた。お世辞にも広いとは言えない店内は、しかし、客と人形がじっくりと向き合うにはちょうど良い素敵な空間であった。とても居心地の良い店内を見渡し、私は目当ての子をついに見つけた。ドアから入って右斜め奥、部屋の中心に位置するテーブルを回り込むようにして左回りに歩いていき、沢山のお人形たちが飾られているなか、ちょうど真ん中辺りにその少年ドールは足を少し開いて椅子に座っていた。青い目はどこか遠くを見詰めている。…思ったより、控えめな雰囲気だった。控えめ、というのは悪い意味ではなく、沢山の人形が並んでいる中で、「自分!自分!ほら、ここにいるよ!」という猛烈なアピールをして来なかった……という意味だ(なんとなくお分かりいただけるだろうか)。画像で見た時には感じえなかった、彼の穏やかなる個性を知った。その後、私は小さな店の中をぐるぐると三十分以上回り、人形を一体ずつ、じっくり観察した。目当ての少年の前で必ず立ち止まって、「本当にこの子でいいか」と自問自答をした。少年にも聞いてみた。「君を連れて帰りたいと思って、私ははるばる此処にやって来たのですが、君はどうでしょう?私のような未熟者がドールオーナーでもよろしい?あんまり立派なおうちではないけれど…。」なんてことを胸の中で問い掛けてみる。少年はきらりと光る青い瞳で、ただ斜め上を見詰めていた。何周もしたのちに、私は遂に決心をして、店の方に声をかけて、まずは人形を抱かせてもらった。抱っこをしてしまったら、もう道は残されていなかった。店を出た私の手には、人形が入った大きな箱を入れた手提げが握られていた(それまで人形を買った経験がなく、自分で人形を持ち帰るための箱やら手提げやらの用意というものをしていなくて、店の人に迷惑を掛けてしまったのは言うまでもない…)。その日、私はこの少年ドールに、自分の人形愛へのひとつのアンサーを委ねた。羊の角を生やした、銀色の癖っ毛の男の子。星のチャームが光るスタイを首から提げている。決め手となったのは、光を反射し輝く青い瞳だ。甘やかさの中に凛とした美しさが存在している。人形を作ったことがあるからこそ分かる。とにかく精巧で、作家さんの拘りと丁寧な仕事がよく伺えた。私にとっては唯一無二の存在、彼には「銀羊」という名が付けられていた。

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あれから銀羊くんのドールオーナーとなり、約一年の月日が経過した。家に居る人形は彼だけでは無いが、やはりこの子は私の中で特別な人形であり、私の人形道において、欠かせない哲学を担ってくれている。きっとまだまだ、時を経るにつれて、私の人形への想いは変容していくのだろう。ギャラリーで人形の展示を観るのは相変わらず好きだし、画集も買う。けれど、今は銀羊くんのふわふわの髪の毛をつつき、抱っこをして、たまに一緒にベッドで寝そべったり、好きな音楽を聴きながら彼をじっと見詰めて過ごすことが、専ら今の私の人形愛好の仕方だ。彼を作ってくれた人形作家様、そして販売してくれた人形店の方々(その節は大変なご迷惑をおかけした)には頭が上がらない。

以上が私と人形の物語だ。きっと他のドールとドールオーナーにもそれぞれの物語があるのだろう。人形に限らず、素敵な縁に導かれて、運命的な出会いを果たす瞬間が人生には何度か存在する。どんなものでもいい、この記事を見ている人も私にとってのこの少年ドールのように生活をささやかに彩ってくれる存在を、今一度探してみてはいかがだろうか。

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