![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145774814/rectangle_large_type_2_e87f40a639a6ac4c2e29aa5aba1140bc.png?width=1200)
好きなことを仕事にできたものの
音楽系フリーペーパーの編集者という職に就けることになった私は、自分の人生における願いを全て叶えたような気になっていたと思う。
それはしょうがない。だって、音楽をはじめとするエンタメが大好きで、その裏方みたいなポジションにつけるなんて、ファンからしたら趣味のようなものだから。
実際に、その職場では第一線の方々との仕事に関わることができた。沖縄にとどまっていたら、考えられなかったようなことばかり。高校時代に良く聴いていたアーティストが事務所で打ち合わせしたり、レジェンド級のシンガーソングライターのインタビューに立ち会わせてもらったりと、刺激的な毎日を過ごすことができた。
その会社の職場は、同じ業界の別会社とシェアしているような感じだったので、他の会社の方々とも交流があった。協力してプロジェクトに挑むこともあったのだけど、そこでアイドル関係の仕事に携わることになった。
ちょうどその頃は、AKB48がヲタクの熱視線を集めていて、ももいろクローバーが一般的な知名度を高めていく最中だった。平成のアイドル戦国時代が幕開けしようとするようなタイミングである。
いろんなアイドルを紹介するという書籍作りに携わった際、私の心を射貫いたのがハロー!プロジェクトのスマイレージだった。
当時、4人体制で初めてのホールツアーを敢行していたタイミングで、運良く中野サンプラザの公演を観ることができた。
世代的にハロプロは慣れ親しんできたけども、そこから少し熱が冷めたような時期だった。どちらかというと、仕事だから行くとう感じだったのだけど、ライブを観てぶっ飛んだ。あんなに踊りながら安定して歌えるの半端ない!すげーとなった。
当時から、ハロプロは生歌主義になっていたらしく、連れて行ってくれた音楽関係のレジェンドもすごく驚いていた。あんなに歌えるものなのか、と。そこから、私のハロプロ人生は始まったのだが、それはまた別の話。
沖縄から上京した理由は「デザイナーになる!」だったが、いろいろあった結果、好きな業界でライター/編集として頑張ることになった私。
好きな業界にいること自体は本当に刺激的だった。ライターとして雇われて、手探りで文章を書いていくうちに「少しずつ上手になったね」と言われるようにもなった。奇跡みたいな話だと思う。
でも、当時の私は不安を感じていた。
このまま、ここにいてもいいのだろうか。
当時、音楽業界は波乱だった。
インターネット利用者が増加し、サブスクサービスが出てきた時期。音楽系の雑誌もウェブに移行しはじめていて、めちゃくちゃ知識も経験もある音楽ライターさえ「書くところがない」と言っていたと聞いていた。
音楽を聴くことは好きだけど、それらにまつわるいろいろを、商業的なテイストで文章にすることは嫌だし、それすらもお金にならなくなっているっぽいことを察知した私は、そこから「WEBライター」という道を選択するのであった。