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豚を再考する


 以前よりたまに見かける間違いとして「飛べない豚はただの豚だ」というのがある。実際のポルコ・ロッソの台詞は「飛ばねぇ豚はただの豚だ」である。「飛べない」と「飛ばねぇ」では意味に大きな相違がある。「飛べない」は能力・可能性を表しているのに対し、「飛ばねぇ」は状態や意思を表している。そもそも豚は「飛べない」。だからこそ「飛ぼうとする」意思と行動が求められる。問題は、飛べないからといってあきらめたり無関心でいたりするのか、それとも飛べないとわかっていても、危険を冒してでも、なお飛ぼうと足掻いたり努力したり行動に移したりするかなのだ。それを理解していない者は平気でこの名台詞を誤用する。いつまでも持って生まれた性質の牢獄からの脱出という夢すら見ることもなく、現状維持・現状肯定の惰性的日常に甘んじるのである。

 ただ私は、飛べねぇものをあえて飛ぼうともせずに、「飛ばねぇでもいっか、ただの豚だし」というふうに受け入れる選択もありだと思う。だって誰からも飛んでくれなんて頼まれていないのだし、飛びたいやつが飛んでおけばいいからだ。でもそれはわかっていてあえてそうするのであって、短絡とか思考停止とかに陥っているわけではない。自分が飛べようが飛べまいが、すべてをふまえてそれでも「飛ばねぇ」のだ。その意味でもそいつは「飛べない」のではなくちゃんと「飛ばねぇ」の文脈の側にいる。私だって、たとえばロケットに乗って月へ行くことのできる財力と科学技術の進展と時代の雰囲気に恵まれていたとして、わざわざそんな危なっかしい冒険に身をさらすほどの勇敢さを持っているわけではない。だから「飛ばねぇ」だろう。といってそういう話でもない。その筋道では飛ぶことが道楽のようなつまらぬものに堕してしまう。限られた豚にとって「飛ぶこと」は、何か使命のようなものであるに違いないはずなのだ。

 この話をわかりやすくするために、いったん飛翔から離れてみよう。飛ぶ飛ばないを、べつの行動に置き換えて考察するのである。

 まず思いつくところでいうと「運転できない豚はただの豚」、あるいは「運転しねぇ豚はただの豚」というものである。豚が運転できない生き物であろうことは想像に難くない。そもそも運転が何かということすら知らないはずだ。だからこの場合、「運転できない」も「運転しねぇ」もその意味に大差は生じない。たとえ実際に豚が運転していたにせよ、とうの豚自身はそれが運転なる行為であるということすら理解していない可能性が大きいだろう。

 となると、飛ぶということもがどんなことかも、普通の豚は知らなかったのではないか。なぜ豚は「飛ぶ」「飛ばない」という「To be, or not to be」的命題のもたらす根源的葛藤の前で苦悩を覚える事態に陥るのか。そもそもポルコ・ロッソの物語はそんな話だっただろうかという疑念はひとまず忘れることにしよう。たしかにポルコは、飛ぶか飛ばぬかという葛藤を抱えていたはずなのである。それはすでに「飛べない」か「飛べる」かの次元を越えた葛藤である。彼は限られた豚であり、飛躍した豚である。彼の内には「飛べない」という言葉はもはやはじめから存在していないのだ。彼は元軍人である。国は違えど、Impossible n'est pas français(「不可能」はフランス語ではない)という言葉を残したボナパルトに通じる直截さと短気と一流の自信過剰を備えている。不可能性の欠如は、一流の飛行艇乗りとして第一次大戦の混迷と惨劇を生き延びた男(豚)の精神に刻まれた生の証たる一筋の創痕なのだ。そしてそれは、新たな時代の到来のなかで、戦争に生き残り(生かされ)つつも、失った仲間たちの幻影と古き時代の価値観の内になお取り残されたひとりの悲しい軍人の孤独を表している。

 (彼の出発点は「飛べるか飛べないか」ではなく「飛ぶか飛ばぬか」だった。というか、冷静に考えるとポルコはもとは人間だったのだから、これほど時間をかけてそんなことを述べずともわかりきったことだ。しかし彼自身が自分を豚としてとらえ、豚の境地で語っているのだからこんなややこしい話になるのだ。)

 「飛ばねぇ豚はただの豚だ」という決め台詞はだから、自尊心に満ちたひとりの豚の飛行艇乗りとしての矜持を示すと同時に、電話で隔たったべつの世界への時代遅れのメッセージとして、空疎に、虚しく響くのである。

 電話越しにジーナは愛と非難を込めて突き放す。

 ――ばか。

 みずからの信念だけを追い求め、ただの豚であることを忌避した結果、ひとりの女性を不幸に追いやる豚は、ただの豚よりもっと悪いのではないか。などというあたりは映画にも描かれているからわかりやすいと思う。古びたヒーロー趣味からすれば、耳ざわりが心地よく、どこか哲学的で深遠なる箴言のように聞き取ってしまいかねないあの台詞は、じつはまったく恰好よくないものとしての表現されたものなのではないかという説に私は与したい(そんな説はおそらく存在しないであろうけれど)。豚が飛んでもしょうがないのである。それは豚本人もわかっている。でもそうするしかない。往年の栄光が磨き上げた弾丸が尽きようとも、標的を見失おうとも、彼は虚空へ向かって己をぶっ放す衝動を抑えられないという病理に生かされている。賞金稼ぎやアドリア海の治安維持は二義的側面にすぎない。彼を突き動かす病原体が名誉なのか愛なのか、はたまた感傷だとか自己嫌悪だとか呼ばれるものなのかは知らないが、どちらにせよ、豚が飛び立つ空はいつでも過去の空なのだ。彼はまだ人生の南中時刻を飛び続けている。くたびれた中年男の背中越しにフィオ(次世代の担い手たち)の視線を借りて私たちが眺めるその時の止まった空は、だからいつまでも暮れる気配を見せないのである。紅(=暮れない)だけに。

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