すべては一度だけ起こったこと
ひとつひとつの言葉の前で、ためらい、困惑し、怒り、疑い、驚く、などの症状をつねに呈しているので、本を読むのも書くのも人一倍遅い。言葉への執着はほとんど病気だと思っている。ちょっとした語順に躓く。なぜその逆ではなかったのか。どちらでも意味は変わらなかったはずなのに。読点をどこで打つか。打たないか。当然だけど、単語や句読点の位置というほんの些細な加減で文章は変わる。書かれている文章を何度も何度も読み返してしまって、先へ進むことができない。そこに書かれていることが、どうしてそう書かれてしまったのか考え込んでしまう。
どことなく不穏な違和に満ちた文章の連なりも大好きだが、端正で堅実な文章の中に、ふと一片の危うさが紛れ込んできたときにはドキッとする。ただドキッとしてすめばいいけれど、いまこうしていることの基盤ごと揺るがされて立ち直れなくなりそうなことだってある。
言葉は完全ではない。言語化不能なものや言語以前のものを、言語を用いて表現しようとしているという矛盾。ミとファのあいだに無限の階調が存在するように、言葉と言葉のあいだにも、まだ名づけられていない領域が無限に広がっている。この信用ならない言語という欠陥品に、とことん付き合わねばならないのだから骨が折れるし身が削られる。
探しあぐねてどうにも見つけられないたったひとつのふさわしい形容詞を、AIにたずねたら教えてくれるだろうか。こんなのはいかはがでしょうと言って、瞬時に数十個くらい考えてくれるに違いない。でもこちらが本当に打ちたいのは、どんな最善手の候補にもあがらなかった悪手として見捨てられるような、意表を突いた一語なのだ。
現実世界がそうであるように、小説内のある場面の、ある瞬間は一度きりのものであり、二度と起こらない。だから、ほかの言い回しで代替可能な表現は一行たりとも書きたくない。一回性の表現に安部公房は強くこだわった。そのために凝った比喩を多用する。「白くて硬そうなヘビを見てびっくりした」という文章があるとする。これを読者は、百人いれば百通りのイメージを思い浮かべてしまう。白さにも硬さにもびっくりする仕方にもバリエーションは無数にあるからだ。それを、そのとき一回限りしか通用しない仕方で書く。どんなふうに白かったのか、どんなふうにびっくりしたのか。作中人物がそこで体験したことを、そっくりそのまま読者が追体験するように仕向ける。「雪のように白い」だとしてもまだまだ曖昧で、意味の射程が広すぎる。白さについてほとんど何も表現していないようなものだ。「割れた大理石の断面のように冷たく白い表皮を持ったヘビ」くらいまでいくとどうだろうか。想起されるイメージや生理や体感がだいぶ固定されてくる気がする。そのくらい攻めていきたいとは思う。これを「夜のパルテノンから切り崩した大理石の…」にしたら、ちょっと詩のほうへ引っ張られすぎているきらいはあるけれど、場面によっては成立するかもしれない。その逆で、ただ「白い」と書ききって、その白さが途轍もなく際立つ情景をあらかじめ用意しておくという手法もある気もする。
そうとしか書かれようのない書き方で書く。でもそれは、そうしようと思っていても、書いている最中にはわからないことも多い。レトリックの工夫はいくらでもこだわれるかもしれないが、必然性がなければ嘘らしくなる。フィクションという嘘は、どこまでも本当らしくなければならない。
そのためには、体感の多様な任意度というか、幅というか余地をできるだけ排除して、じかに生理に訴えてくるその場でしか通用しない言葉を生み出す必要があるだろう。「白くて硬いヘビ」とだけ書いておいて、あとはそちらでお好きに、というのは無責任だ。読者は自分のすでに知っている「白さ」や「硬さ」にしか結びつけることができない。それでは小説を読んだことにはならない。小説は未知なる経験でなければならない。「わかりやすさ」や「共感」や「感情移入」などと言われるものとはもっとも遠い場所にしか、フィクションの存在意義はない。フィクションとは、たとえ理解しがたくとも、「そうとしか書かれようのない仕方で書かれてしまっている」現実のことだ。
解釈だとか理解だとかを越えた地点で、まだ意味に到達する以前の現実を体験するということこそが、小説を読むという行為の何よりの、そして唯一の醍醐味だと思う。書き手にとっても、読み手にとっても、言葉は都合の良い共感ツールなどではけっしてなく、容赦なく存在基盤を打ち揺るがす凶器にも似た何かなのだ。言葉を前にして、言葉を失うという病理をそっと引き受けよう。そういうふうにしてしか行き着けない場所が、小説には用意されているはずだ。それを逃せば、二度と訪れることのできない特別な場所が。すべては、そのときたった一度だけ起こったことなのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?