大切なことに気がついた
今、Kindleでの販売を目指して制作にとりかかっている小説は、現代が舞台のファンタジー要素がある作品だ。
読んで欲しい層がどこなのか。
読んで欲しい層に読んでもらえるためにはどうしたら良いのか。
考えた結果、一人称で書くことにした。
一人称で小説を書くことが苦手だ。
苦手なものを無理にやらなくても良いし、得意なことを伸ばした方がよほど良い。
と、常々考えている。
では、得意なことは何か。
一人称で延々と文章を書くこと。
苦手と得意が、一緒?
それはどういうことなのか。
一人称で書くと、小説としては不要なことまで延々と書き続けてしまう。
話はいくらでも出てくる。
単に思いつくままに書いただけでは、時系列がバラバラになったり、気づかぬうちに同じ意味の内容を、違う言い方をしていて無駄な繰り返しになっていることがある。
問題なのは、取捨選択のセンスと構成力だ。
けれども、何も考えずに延々と書くのも、それはそれでありなのかもしれない。
むしろそうすべきなのかも?
迷子である。
これまでは、影響を受けたり、似通った雰囲気を出してしまうことになるとわかっているから、あまり小説を読まないようにして来た。
勉強のためとか、参考にするために小説を読むことが、本当に恐ろしかった。
けれども、今の自分なら、大丈夫な気がした。
「小説家になろう」が原作のアニメは大変多い。
そして、大半が一人称で書かれており、中でも、書籍化、漫画化、アニメ化されている作品の多くは異世界ものだろう。
当然、異世界もの以外も存在しているが、いずれにしても、大抵が一人称の話し言葉で書かれているいわゆるライトノベルだ。
何事も、真似をすることから入ると良いらしい。
似通うことがすなわち悪いことではない。
もし、結果として模倣のような作品を書くに至ったとしても、それは必要な過程なのだろう。
覚悟を決めて、書籍化されている一つの作品を読み始めたら、とてつもなく複雑な気持ちになった。
面白いと感じると同時に悔しいと感じる。
引き込まれて読み続けている状態が、とんでもなく悔しい。
読まれる作品というのは、面白い、引き込まれる、つづきが気になってどんどん読み進めてしまう。
これに尽きるだろう。
どのようにして書き進められているのかを分析しながら読んでいる自分も同時に存在していて、ますます歯がゆい。
そして、その感情を持て余しているこのタイミングで、先日放送された関ジャムを観た。
Kroiのボーカリストが話していた内容が、心に刺さった。
中学校2年生の自分が喜びそうな音楽をやりたい。
中学校2年生の自分を救いたい。
何を隠そう、今書き上げようとしている作品を起こしたのは中学校2年生の時なのだ。
自分がいまやろうとしているのは、中学生2年生の自分を救うことだったのか。
そうか、そうだよな。
心底納得した。
いつだって、必要な時に最適な言葉や事象が届けられている。
見えない存在によってそれらは確実に遂行されていて、肝心なのは気がつくかどうかだ。
この現象を総じて。
答えは常に自分の中にある
と、いうのではないか。
本当に、自分の気持ちに鈍感だと改めて理解した。
そして、自分が何をしたいのかを明確にすることこそが、最も大切なのだと気がついた。
きっかけをくださった、蒼井美紗さん。
https://mypage.syosetu.com/mypage/novellist/userid/2016864/
そして、Kroiの内田玲央さん、ありがとうございます。