順位付けと平等と(長文)
またまた真面目な長文記事。気楽な話をしていて気がついたことだが、かなり奥深い真剣な話題となってしまった。なのでnoteで改めて考えてみたい
話は気楽な、単純な話題から始まった。関東の県別対抗意識の話だ。簡単に説明するが、関東7都県には、他の県に対してライバル視したりディスってみたりがよくある。まああくまで笑い話ではあるのだが………各地方でも少なからずあるだろう
これ自体が(そんな深刻ではないけど)マウント行為で、つまり序列を決めたいという思いである。よくよく考えれば、群れで生きる社会性のあるサルやイルカなどの動物は、群れの中で順位付けがあるのが当たり前だ。例えば犬が人間も含めて序列に拘るのが有名だが、これも社会を維持するために本能的にしていること
そうすると、我々がつい無意識的にでも順番を付けてしまうのは、やっぱり動物としての本能、ということなのだろう。人間は知能が高いとはいえ、そこまで神に近い訳でもないし、その生物学的くびきから逃れられてはいないし
ん?そうすると………この順番や序列といった考えは、社会を構成するためにどうしても必要なものなのでは?そんな話になってきた。確かにスポーツ競技でのランキングや、都道府県や各国の色んな順位(魅力度だの幸福度だの)も当然で、むしろ可視化されていないほうが不安視しやすい
つまりは順位はあって当たり前、あることで人間(と人間社会)は成り立っているとも言える。さらに考えを進めたら、実は順番とは大切な危機管理の意味が強いのではないか、ということになる。優先順位の決定は、生きていく上で常にしていくし、多くのミスがこの順位の間違いという選択の誤りから起きたりするわけだ。だとすれば人間は、というか動物は順番からは逃れられない
で、ここで問題になるのは…………
順番と平等は相容れない
ということだ。いや、もちろん全てがということではない。「人権」のように両立できることもある(と信じたい)。だが人の選択のどこにでも順番決めは存在しており、結果平等に扱うことはできない、ということだ
例えば1人の人間が亡くなる時、著名人の場合は大きな衝撃を与えるが、一般人、特に身寄りのない方などでは気にする人もない、ということはおわかりいただけるだろう。また今日本ではメジャーリーガー大谷翔平を日々取り上げているが、他のMLBプレイヤーはそこまでじゃない。知りたいと思う人の数が違うからだ
これを差別と呼べるかといえば………そうではないはずだ。が、差別感情はそこからそう遠くない場所にある、そう感じるのは私だけではないだろう。もちろん公式な順位だけではなく、個々人の中に様々な順位があり、それは人に対してもあるのだから
そしてそれは必然でもある。順番を決めなきゃ行動もままならない。津波の時、てんでんこに逃げることを最優先した釜石の奇跡は、思考と行動を最優先にした中学生が主になり実現した、奇跡とは程遠い事象である。いかに優先順位のつけ方が大事なのかを考える、最適な出来事のひとつだろう
ただ緊急事態以外でも、日々の生活の中で優先順位は常についてまわる…………そして無論社会や組織を円滑に機能させるための序列が必須。それぞれにトップがおり、階層社会を形成している。それ自体は決して間違ってはいない。だがこれ、確実に立場や影響力には差がある
それこそ人は生まれてからずっと社会の1人として、いろんな順序をつけつけられ生きることになる。それは100人100とおりであり、1人として同じじゃない。これ、本当に全てで順序というか序列というか優先順というか…………必ずついてまわる
これに気がついた時、慄然となった自分がいた。人間はマウント行為や差別をする生き物だし、それは動物としてはあって当然の姿だと気がついたから。この中で平等を作り出すことの困難さはとてもとても難しい
もちろん差別や偏見、マウントを良しとしてるわけじゃない。私はこれらを否定する。と同時に私自身も自然と順位付けをしていることに気がつく。誰もが意識しないと無意識の中でやっていることなのだろうから。それは本能としては間違いじゃないのが怖いこと…………
かつて荀子は性悪説を説いた
性悪(生まれつき悪)なのかどうかはさておき、所有権を持った時点で人は争いを始めた。食べ物、土地や財産etc……特に貨幣制度が始まると激化し始め、今でも大小の揉め事となって世界にある。本能と理性の双方が競走に拍車をかけているように思う。根源的な問題だからこそ無くならない………
ただ荀子の言っている通り、だからこそ利己心と戦いながら自分を律していく、それが大切なのだとも思う。自由というのはその節度の範囲内で、とも感じる。自分の”正しさ”は大事ではあるものの、押し付けるのも違うしあくまでも個人のもの、ということは優先したほうがいいのだろう
”平等”はその先に見えるもの………といいたいところだが、改めて振り返れば実現するのかだいぶ疑わしい。「ユートピア」と同じ感じな気がする、つまり直訳の「どこにもない場所」と、だ。社会のどこを切り取ってもほとんどの事柄で”平等”ではない、と実感させられる
人権そのものは平等と扱うとしても、機会や立場は確実に平等にはならないし、貧富の差や能力の差はいかんともしがたいわけだし。その他何を見ても順番というかはついてまわるもの、そう再認識した。だからこそ目指す、というか意識が必要なんだろう
取り留めがなくなってきたが、人間という「動物」が社会性動物であること、その中では順番がとても大切であること、だからこそ平等は目指さなければ得られないものであること。今回はそんな話だった。また後日追記するのか、訂正するのかはありそうだが、今日のところは一旦〆たい
………一言なんか書こうと思ったのだが、なかなか厳しい現実になんにも出てこなかった………いつかもっと希望のある続編を書けたらとか思う
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