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古いという事と歴史がある事とは違う。

古いという事と歴史があるという事は違う。歴史があるというのは時代時代に有馬に来た人の記録があるという事で、後世になった書かれたものではない。舒明天皇は631年に有馬に来られた。日本の歴史の最初に登場するのが有馬温泉。以来、歴史上の人々の来湯記録がある。

有馬温泉には何故?歴史上の人物が来湯したか?

都に近かったから。一言でいえばそうなる。

日本は世界有数の火山国で、活火山が煩悩の数だけ存在する。つまり108だが世界の活火山の約7%が日本に存在している。ちょっとまって最近数が増えているはず。気象庁で調べると111になっている。

都には人が集まる。その人の生活を支える為に農地が必要だが、都の近くに火山があると火山灰が降ってきて作物を枯らす。そうなると都は維持できない。火山の影響だけでなく飢饉が起こると都は成り立たないので、やはり食料を確保できることが都をつくるうえで重要だと思います。

そうすると火山のある所にはつくれない。となると火山のない近畿地方に都を設けるしかない。だから飛鳥の時代から都は近畿地方に置かれていた。

でも火山がないという事は、温泉が湧かない。

でも、有馬には温泉が湧いていた。だから都から人が来た。つまり歴史上の人物が来た。そしてその人達は記録を残したという事です。

何故?火山のない近畿地方に高温の温泉が有馬に湧くか!という事は“温泉界の非常識、有馬温泉”の項目で書きます。でも有馬の温泉を一言でいうと「湧くはずのない所に、湧くはずのない湯が湧くのが有馬温泉」

温泉は誰が発見したか!

飲み水のための井戸を掘るのは、昔から行われてきたが、機械を使用して深い所まで掘削する技術は、石油の利用と共に発展し、その技術が温泉掘削にも利用されている。

最近では空から地形を見て掘る場所を決めるというが、少し前は職人さんが山の地形を見て掘る場所を決めていた。でもその掘削技術のなかった時代はどうしていたのだろうか?

有馬温泉の歴史は古いが、昔に有馬に来た人たちはどのようにして温泉に入っていたのだろうか? 当然、お湯は自然湧出していたはずだ。
人間以外の動物が、湧き出る温泉を見つけたという話もある。
また、動物が発見したといわれる温泉地は多い。

英語で風呂の語源になったイギリスの温泉「BATH」は豚が発見したといわれているイギリス王室ご用達の温泉だ。同じロイヤルファミリーご用達の温泉として、有馬と姉妹提携ができないかと考え、阪神淡路大震災後その地を訪問したことがある。

ロンドンのパリントン駅から1時間半で行ける。花の美しい街として有名で、訪問当時は施設として入浴ができず飲泉のみだったが、その後2006年に「サーメ・バース・スパ」が建設されて、現在では入浴ができるようになっているそうだ。

もうずいぶん昔の事になるが、岡山県の湯原温泉は、ダムの下に河川敷を利用した混浴の露天風呂があるので有名なところ。湯原温泉を早朝発って、有馬に向けて帰ろうとしていた。湯原温泉から少し南に車を走らして道路の左手を流れる川に目をやると、川岸にうっすらと湯気が上がっている所があった。そこでカラスが水浴びをしていた。そのときにやっぱり動物は温泉に入るのだなあと実感した。

猿が入浴?する温泉がある。特に「スノーモンキー」で有名なのが長野県の地獄谷温泉である。温泉に入るのはメス猿と子どもの猿だけだという。温泉の人の話では、猿を温泉に入れるためにはちょっとした仕掛けがあるそうだ。

有馬温泉はカラスが発見した!?

延喜式神名帳には有間神社・公智神社・湯泉神社の三座が記載され、湯泉神社が大社として月次・新嘗の神事をあずかる社となっている。

有馬の湯泉神社は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祭られている。大国主命は創造と破壊の神様だと言われ少彦名命は薬の神様。この二神が三羽のカラスが傷ついた足を谷間の水たまりで癒しているのを見て、有馬の温泉を発見したという事になっている。

湯泉神社にはカラスの彫り物がある。足は三本。日本のサッカー協会の公認マークになっている「八咫烏」(やたがらす)だ。太陽の化身であり熊野信仰と結びついている。有馬は熊野ともかかわりが深い。熊野は朝鮮半島や九州・四国から大和を目指す(戦の遠征からの帰りなどに)行路にあり、『古事記』の中に山中で天皇を導く「八咫烏」が登場する。神話の物語であるが、何か縁があったことは確かだろう。

カラスの話しのつながりを言うと、熊野本宮の祭神であるケツミミコ神の命令で、カラスが有馬に飛んで二神に温泉がある事を教えたとされている。

日本人の温泉イメージは、神話や古来の自然信仰と、密接な関係がある。

蘇我馬子が何故? 発見者なのか?

有馬温泉の北側に八多町(はたちょう)という町があります。中国道、新名神、山陽道が集まっているジャンクションの有る町です。

1993年このジャンクションの建設工事の際に、秦氏(はたうじ)の生活跡が発見され5~6世紀の官営的な住居跡が確認されました。秦氏は秦の始皇帝の流れをくむ一族で、応神期に百済から渡来し住み着き帰化したようです。


八多は古名を幡多郷といい、上下二集落があった。
地名にも番匠垣内・番匠・矢骨川(木工)、穴窯・鍛冶屋垣内・鍛冶屋谷・鍛冶ケ岡・金屋・鍛冶ケ坂・鬼のふん(鍛冶屋)、陶釜谷(陶工)。などの技術者が存在し有馬周辺は豊かな地域であったと想像できます。
有馬の近くには唐櫃、藍本、藍野など秦氏に関係する地名があるので、薬草でも取りに来た秦氏の人が、カラスの入浴を見て、村の長老から秦氏と関係が深かった蘇我馬子に伝わった・・・というのが流れかなと思っています。

そうなるとユダヤ人が有馬温泉を発見した!というまで遡るのもありかな?(笑)



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