彼岸花と京都タワーに対する関心は、異形なものへの憧れだった
だらだら過ごしているうちに、夏の暑さが過ぎていった。
気づいたら9月も終盤で、ああ、もうすぐ秋真っ盛りだなと思う。
季節の移ろいが好きだ。春分の日と秋分の日は、昼間と夜の時間が同じになる。季節の変わり目を感じながら時間を刻むのが、たまらなくいとおしい。
春夏秋冬の中でも、冬から春と、夏から秋に変わる変わり目が、特に気に入っている。
何にも考えずに自転車をこいでいるだけで、春は春風や桜に身体をあてられ、秋はきんもくせいの香りがそっと鼻をなでる。
その中で、私が特に気になるのが「彼岸花」だ。
今回はその彼岸花の気持ち悪さについて、だらだら思っていることを書き綴りたい。
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彼岸花について、図鑑を調べたわけでもないので、ここから先は私の感覚だけの話である。
彼岸花について、咲く前の姿を見た人はいるだろうか。
彼岸花研究者を除いて、たいていの人が「気づいたら咲いていた」、そんな花が彼岸花なのではないだろうか。
地球温暖化等によって気候変動が叫ばれている昨今、桜の開花が例年以上に早まったり、熱帯に住む魚が日本海で見つかったり、今までと違う現象が少なからず起きている。
その中でも、彼岸花はお彼岸の時期に必ず咲く。
お墓詣りをするとき、あの赤く涼やかな姿を我々の前に晒すのだ。
咲く様子も全く見せず、気候変動も関係なしに、名前のとおりお彼岸の時期に咲く彼岸花。
そして、気づいたら姿を消している。
それが、私には、自然の摂理とは違った何かにコントロールされている感じがして、たまらなく気持ち悪い。
あの花は何かの分身なのではないか、それとも違う世界から来たのだろうか。
そんなことを考えながら、この時期になると彼岸花を探して目を凝らす。
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京都へ旅行に行った際、京都タワーを見て友達が「京都タワーって異物感があって気持ち悪くて好きなんだよね」と言った。
”京都”という歴史ある街の中に、突如現れる京都タワー。
東京タワーやスカイツリーのように洗練された形でもなく、「ロケットが不時着してしまいました」というような風貌で、わけもなく街中に晒されている。
しかも、私たちが京都に旅行に来ていた時、黄緑色にライトアップされていて、一層の気持ち悪さを放っていた。
確かに、地球外生命体のような、わけのわからない異物感が漂っていて、それが好きだという話を聞いたときに、「ああ、私が彼岸花に対して思っているそれと同じだな」となんとなく思った。
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オードリーの若林が著書の中で、太陽の塔の話を書いていたが、それもなんとなく気持ち悪さから来る執着というか、怖いもの見たさのような憧れの形なのではないかと思った。
異形なものにこそ、憧れたり惹かれたりする何かが、まっとうでいなければならないこの世界に生きているからこそ、生まれるのだろうか。
今年は、彼岸花を見る機会がなかったなと思いながら、彼岸花へ憧憬の念を膨らませている。