「ドライフラワー」に「かくれんぼ」は不釣り合い?
私にトシちゃんダンスを教えて下さった、ダンサーでありシンガーソングライターの西野名菜さん(すみません、毎度こんなご紹介で)。
オリジナルでかなりハイクオリティな「歌って踊ってみた」動画をここのところ続けて公開されているが、その3本目がYouTubeに上がっていた。
曲目は、話題の「ドライフラワー」。
「ドライフラワー」って曲、いいですよね。
女性主観の歌詞が、名菜さんの歌声を通じて、本家の優里さんの声で聴くのとまた違った感じでグッと胸に迫ってきて、今回もかなりリピートして聴かせて頂いてます。
ずっと話そうと思ってた
きっと私たち合わないね
二人きりしかいない部屋でさ
貴方ばかり話していたよね
*
多分君じゃなくて良かった
もう泣かされることも無いし
「私ばかり」なんて言葉も
なくなった
歌詞のこういう部分を読むと、この主人公の女性に私は勝手に感情移入し、うん、早く別れろ!別れて正解だ!とエールを送ってしまう。
私には「テレフォン人生相談」というラジオ番組を余すところなく聴く、という大変暗い趣味があるのだが、この番組ではよく、男女の別れに関する悩み相談が寄せられている。
「昨日まで普通に話していたのに、仕事から帰ってきたら女房がいなくなってたんです…」
こいういう相談に対し、おおむね回答者の視線は厳しい。
昨日まで普通に話してたのに突然逃げ出す、という行動は、もう末期状態。
話が通じるはずもないほど、二人の間には断崖絶壁のようなズレがあるのだと。
だから胸のうちに深い絶望を抱え、何も言わずに逃げる、という行動を選んだんですよ、と反論の余地もない説教を食らわされ、相談者はうなだれるしかない展開となる。
もしいつか 何処かで会えたら
今日の事を 笑ってくれるかな
理由もちゃんと話せないけれど
あなたが眠った後に泣くのは嫌
いいよ、理由なんか話さなくて!
一刻も早くそこから逃げろ、そして忘れろ!
またまた私は、拳をギュッと握ってしまう。
「ドライフラワー」の切ないポイントは、彼から逃げる、別れる、という選択をした彼女が、やはり恋の余韻に苦しんでしまうというところだ。
まだ枯れない花を 君に添えてさ
ずっとずっとずっと 抱えてよ
でもきっと彼女はその傷を、自分の力で癒していくだろう。
おそらく一月も経てば、あんな男と別れて正解、という心情に移り変わっているはず。
女性は切り替えが早いなんて昔から言われるけれど、もしかしたら我慢の限界に達するまで耐える、という役目を女性の方が背負わされがちなのかもしれない…
…いや、そうでもないな。
私の周りでは、この立場は男女で五分五分な感じ。
だから、昔ならともかく現在に至っては、女性に限った話ではないのだろう。
一つ気になることがあった。
こんな風に描かれている恋の相手、男性側はどんな心情でこの恋を捉えていたんだろう?
そんな興味を覚えたのだが、なんとこの歌には同じく優里の歌うアンサーソング、「かくれんぼ」というものがあるらしい。
そこで、聴いてみた。
そして、とても驚いた。
ちょっと、男側の気持ち、解像度低すぎじゃない?
ここまできめ細やかに女心の描かれた「ドライフラワー」へのアンサーソングとして、この「かくれんぼ」には不釣り合いな印象が否めない。
じゃんけんで負けて俺が鬼?
そんな上手に隠れないで
出てきてよ もういいだろ日が沈む
うわー、怖い怖い。
やっぱり、心の中では逃げた妻への怒りを溜めながらラジオに電話してくる男性たちと、この男はあまり変わらないように思う。
怒りや苛立ちは不安によるものだと思うけど、その根底の不安に無自覚では、決して男と女は分かり合えない。
歌詞では色々な言葉で言い換えて表現はしているものの、男側の心情は最初から最後まで、「え、嘘でしょ?なんでいなくなっちゃったの?出てこいよ」である。
本当に彼女のこと、理解してなかったんだな…
この「かくれんぼ」を、「ドライフラワー」に続けてリピートして聴く気分に慣れないのは、きっと私は彼女側の気持ち、解像度高めな気持ちに同情を感じるからなのだろうな。
それにしても。
この、「気持ちを言わずに我慢する」のが女性の役割で、「俺についてこいよ」的な立場が男性の役割、という古風な構図に当てはまる恋愛ばかりが、世の中にあるわけではないとも思う。
この逆パターンだって、結構ある。
それを歌にしたものだってある。
強い女性に優しい恋人。そういう曲だって数多くある。
そういう時の、立場が強かった側の心情も高解像度に描く歌があってくれたら、それを聴いてみたいものだ。
「かくれんぼ」の幼さじゃ、あの「ドライフラワー」には釣り合わないよね。(いや、だからこそ彼女は逃げたのか…)
ASKAマニアの私の中に一つ思い浮かんだのは、彼の1st.ソロアルバム『SCENE』('88)に収録されている、「最後の場面」という曲。
こちらは女性主観ではあるが、好き勝手やってきた方が別れを告げられる、というシチュエーションは同じだ。
かばい合う大人よりも
わがままな子供でいたい
甘い夢を 見つめることだけは
私には やめられなかった
*
この恋は 私の恋
あなたのものとはちがう
あなたの描いた 遠い空だけが
私には 青くなかっただけ
いいねいいね、解像度高めだね。
「わがままな子供」でいたかった彼女が、恋人が愛想をつかし部屋を出ていく時にはこんな心情になっていく。
あなたのやさしいくちもと
別れを告げようとしている
言葉に追い詰められた
女はあわれに見えるでしょう
別れを切り出すような
悲しい勇気はどこから
あなたが背中向けた時
みんなみんな なくなった
そう、これは懺悔の歌。
あなたは全て受け止めてくれる、と我が儘に振舞っていた、そんな恋の終わりに際しての、後悔と懺悔の歌だ。
ここまで悔いてくれると相手側も心が動くかな。
結局この「最後の場面」に描かれる「あなた」は、ドアを出て行ってしまうのだけれど。
「かくれんぼ」で描かれる男性は、自分の悪かったところに無自覚なようだけど、それはきっとこの社会に蔓延している「男らしさ」の呪縛によるものなんだろうな、というのも少し思う。
おそらく「ドライフラワー」と「かくれんぼ」という連作を生み出す時に、その暗黙のジェンダー観は、少なからず作者に影響を与えただろうな、というのは想像できるのだ。
だって、「ドライフラワー」やASKAの「最後の場面」を男性主観の歌詞に書き換えたら、なんとなく合わない気がするでしょう?
いや、最近はそういう歌を歌えるミュージシャンもいるのか。
秦基博や星野源の言葉で、声で、聴いてみたいような気もする。
さてさて。
そんな風に「繊細な彼女とマッチョな彼の別れ話」というイメージを「ドライフラワー」には持っていたため、西野名菜さんの動画を観て、中盤からニュッと男性の手が現れた時に私の身体はビクッと硬直した。
「逃げて!」
と、ついそう思ってしまった…。
でもやはり、ダンスって素敵。
二人のアンサンブルでは、この楽曲で描かれた負の感情よりも、これほどにまで別れ難い恋の豊かな面、愛おしい面を感じられるように、不思議となっている。
アウトドアでのダンスというのも、本当に素敵。
人間って、こんなに美しい形をしているんだ…と、私はついボーッとなってしまった。
ちなみに、こちらの動画はバージョン違いなようで、Dメロ部分のダンスの踊り手が、名菜さんから男性ダンサーに変わっている。
なかなか芸が細かい。
しかもちゃんと観ると、ラストシーンの結末まで違っている。
別れをなんとか受け止めようとしている1本目の動画のラストと違って、こちらはなんと、男性の元に戻ってしまっているのだ…。
「逃げて!」
と、私はまた性懲りもなく胸の中で叫ぶ。
でも、どうしようもないんだよな。
不幸になる恋愛であっても、好きになってしまったのなら自分を曲げてでもそれを貫くしかないんだから。
恋愛ってとても非合理なものだけれど、この動画でダンスを踊っている二人はとても美しくて、まあいいか、恋をしている間に人は輝くものなんだ、ということを教えられたような気持ちになる。
「ドライフラワー」を聴くたびに「かくれんぼ」の男心を思い出して心ざわつく、ということが、この動画を観た後の私にはなくなった。
何事も、失うものがあれば得るものもあるんだよね。
得るものにスポットを当てられる感性でいたい、と思わせてくれる作品でした。