《点光源 #6》 ファンとは、貰うだけでなく刺激を送るもの。
連(むらじ)さんに出会ったのは、'17年のことだった。
「nobody but you」という、ASKAの”非公式”ファンサイトの運営者。
「ASKA ファンサイト」と検索をかければ上位にヒットし、英・中・韓国語にも対応し海外ファンへの門戸も開いていたそのサイトは、まさにASKAを世に知ってもらうための一つの入り口になっていた。
メインは動画や音源の紹介であったが、中にはASKAの独特な歌詞世界を紐解くような記事も多くあり、私はその中の一つに非常に心打たれ、思わずメールをお送りし、それから親交が始まったのだった。
連さんがご自身のサイトに書いてきた数々の記事は、ただ好きなアーティストを褒めそやすものではなく、ファンならば目をつぶりたいことについても、時にやんわりと、そして時に辛辣に記事にしてきた。
そのスタイルは、私がこのnoteを始めてからはなおさら追いつけるものではなかった。
彼の辛辣さが耳に痛く、またそこまで書く姿勢が同じように文章を書く私の胸に小骨のように刺さり続けてきたのは、それがただのクレームではなく、的確すぎるためであった。
メールをやり取りするうちに私は、彼が精神医療に携わっていると知るようになった。連さんの記事には、どこか心の奥をつかむような的確さがいつもあった。
古今東西の正気と狂気、そして芸術…すべては区切ることができず地続きになっている、と連さんは考えてらっしゃるようだった。
時に多くのファンと真反対の言葉を口にする彼の記事はそれだけでも稀少性が高く、私はいつでも意識して読むようにしていた。
さらに言うならば、ASKAの芸術性の高さについてあれ程までに根拠立ててしっかりと書いてきた方を、私は連さん以外に多く挙げることができない。
とにかく、「nobody but you」は特別なサイトだった。
ASKAには良いファンがついているんだな…出戻ってきた私はそう思ったものだった。
だが、昨年の末になんと、そのサイトは閉じられてしまったのである。
情報というよりむしろ「作品」とも感じられるような記事の数々がもう読めないことに、私は地味にショックを受けていた。
サイトのタイトルとなっていた「nobody but you」=「お前しかいない」は、'99年のチャゲアスのシングル曲(「この愛のために」詞/曲:ASKA)からの一節である。
ファンにとっての「お前」とは、間違いなくアーティストである。
Nobody but you
あれは あの日消し忘れた灯りか太陽か
ここから俺を 遠く俺を照らすのは
お前しかいない
ファン。
それは傍らで見守るものであり、遠くから愛を送り続けるもの。
アーティストを生かす存在でありながら、時折善意が牙をむくもの。
ASKAの音楽を愛する人たちへのインタビュー連載《点光源》、6人目の連さんに伺ってみたかったことは私の一番知りたいこと、すなわち「ファンとは一体何なのか」であった。
*
●ニュースの偏りを見て、書かずにいられなかった
ーー連さんのサイトと私のnoteは、実は深い縁があるんですよね。まずは私が「nobody but you」の方に食い込んで(笑)。
「『PLEASE』の歌詞解釈を書いたときには、お世話になりました。『PLEASE』はキリスト教の香りがするので聖書について知りたいなと思っていたところ、s.e.i.k.oさんがお詳しくて。しつこく質問してお答え頂きました。結果いいものができまして、僕が書いた100本くらいの記事の中で、『PLEASE』が一番のお気に入りだったですよ」
ーーそうですか! それは嬉しいな…。ずいぶんと深く話し合いましたよね。あの後、私は対話や連さんの記事から得られたものをヒントに光GENJI「THE WINDY」の歌詞分析記事を書きまして、なんとその記事をまさかのASKAさんが読んで下さり、滅多に歌詞の裏側について話されない方なのに、記事内容に同意を頂けるという奇跡が起きた。なので今の自分の活動は、連さんのサイトに出会った日からの一直線上にあるんです。
今日はようやく連さんご自身のお話を伺えますね。サイトはいつ頃、どんなきっかけで始められたんですか?
「'14年に、ASKAが逮捕された1週間後に開設しました。構想自体はずっと持っていたので、作り始めたら早かったですね。
'13年に初めて文春で報じられた時に、NAVERまとめに記事を書いたんです。あの事件に至るまでについて、僕が心の中で描いていた物語がありました。それが『声』です。
ASKAは'90年代後半から声の不調に見舞われていました。世間一般が『成功者のおごり』だとか『人としての弱さ』なんて言葉でレッテルを貼っていく中、僕は'00年代をリアルタイムで見続けてきたファンなので、どうしても声の不調に苦しんでいたASKAを世に紹介しておかないと、このままでは悔しくて死にきれないって、あの日めちゃくちゃ切実に感じたんです」
ーーNAVERの記事が今読めないのは非常に残念なのですが、私はそれを見つけて読んだ時、喫茶店にいたんですが人目を気にする余裕もなく涙がこぼれてしょうがなかった。世間で言われてることに納得がいかなくて、色々調べては失望していた時期だったので、こういうものが読みたかった、と安堵したのかもしれませんね。ここには大事なことが書いてあると一読でわかりました。
「他にそれを言っている人はいないようだったから、しょうがない、僕がやるしかないってことで。他に誰かが言ってたらサイトも始めなかった気がします。なんでもそうなんですよ、誰も言わないならオレが言うってパターンが多くて… ほんとは過激なことは書きたくないんですけどね、もちろんのことながら。
'00年代以降もずっと観てた人は、こんなに声出てないのにライブやって大丈夫か?とどこかで一度は思ってたはずなんですよ。でも、誰もそれを表立っては言わなかった。ファンとしての優しさからだともちろん思うんですが、一方ではそう思うことへの抑圧も働いてるかもしれないと」
ーーそこを否定しては、ずっと好きな自分の気持ちを否定することに繋がりますもんね…。まだ、大丈夫だと。
「ずっと途切れずにファンであるという心理の中には、少なからずそういう面もあり、そうなるのもわかる。
でも僕は言わずにはいられなかった。声が事件の原因だというのは、僕の妄想です。でも僕の中ではその物語しかなかった。あのASKAにとって、声が出ないってどれだけ辛いことなのか。僕はASKAの声が出ていない映像も知り尽くしてて、完璧に選べる自信があった。なので、みんなこれを見てくれよ、これを見て何か感じることはないか?というのが抑えきれなかったですね」
ーー私はあの記事を読んで救われた気持ちがしました。辛い話なんだけれど、点であるものを線につなげてくれたような気がして。
「僕はひどいこと書いてると思われることもありますが、救われる話しかしてないつもりなんですよ。他にもう一本NAVERに書いてるんですが、そちらは『kicks』というものすごい作品をみんな見てくれ、というものでした」
連さんの言う『kicks』とは、'98年にASKAがそれまでのロマンチックなラブソングを歌うイメージを完全に振り落としきった、刺激的なツアーを収めた映像作品だ。
これまでVHS(廃盤)しか存在せず、'20年のステイホームキャンペーン中、ASKAの公式YouTubeチャンネルで一時公開された時には、わざわざ冒頭に「その口を塞いで黙って見てろ」とのテロップが(おそらく本人のアイディアで)付け加わっていたほどに、ASKAの当時の心境や、アーティストの内に燃え盛る激しさを詰め込んだような映像作品である。
「あの作品のASKAが『SAY YES』『YAH YAH YAH』ほど世に知られていないことが、僕は不幸だと思うんです。当時のニュースでは『愛』と『勇気』を歌ったASKAしか映っていなかったでしょう。そんな薄っぺらい話にしないでくれと。バリバリにロックをシャウトしてる映像も見てもらった方がいいんです。
アルバム『ONE』『kicks』『NO DOUBT』の頃を僕は裏黄金期と呼んでいるんです。このあたりの作品は、大ヒット期とまた違った意味で一般の音楽ファンも唸らせるものだと長年思い続けてましたね。奇しくもその自説を開陳する機会が巡ってきてしまってる…文章に残しておかないと悔やみ続けると思って」
ファンの語る言葉には、どこか真実があるーー。
このファンへのインタビュー連載《点光源》を始めたのは、私がそのように思い始めたのがきっかけだった。
そしてこうやって連さんと話していると、その思いはより強くなってくるのだ。
●ファンでない人が見ても気持ち悪くないサイトにしたい
ーー以前メールでのやり取りの際に、「記事を書く時にググったことがない」とおっしゃってて驚いたんですよね。
「そうなんですよ。s.e.i.k.oさんも一緒だと思いますけど、データ重視の記事は書きたくないんです。主観とストーリーが命なので、ネット情報にはほとんど頼りませんでした。シングルとアルバムの発売年月と売上枚数だけは頭に入ってますから。
この動画は見ておいた方がいい、というのを紹介するのが元々サイトのメインコンテンツだったんですが、そこに貼るのも『この曲ならあの動画』というのが1秒で思い出せるので、サイト作りはものすごく早かったですよ(笑)」
ーー連さんって、超主観的な記事の書き方をするんですよね。そこがものすごく良いところだと私はいつも思ってます。
「僕は自分が強く惹かれたものにしか興味が持てない。全ての情報をフラットに網羅し比較して、ということには、残念ながら全く興味が向かないんです。記録よりも記憶、というやつですね。
他にも必聴のアルバムランキングなどもぜひ世の中に、できれば事件をきっかけにASKAに興味を持った人達や、昔ファンだったという人達に触れてもらいたかった」
ーーずっとASKAさんを追ってきた人、というのは当初は対象外だったんですね。
「チャゲアスというレジェンドをもっと世に知ってもらうことが目的でしたから、なるべく広い範囲の人に見てもらいたかった。僕のモットーは『ファンでない人が見ても気持ち悪くないサイト』でしたから。そういう人からの再発見やエールが、当時のASKAにとっては力になると思っていました。
今はちょっと違うかもしれません。ASKAも復帰して果敢に活動されてますから。この状態を支えられるのは、逆にずっとファンでい続けた人達が離れないことだと僕は思っています」
深いファンであるということは、それは外野から見た違和感との戦いである。
いかに没頭の楽しさを味わいながら、平静を保っていられるか。
そのバランスの存在をあぶり出した連さんには、同じものを愛するファンからの深い共感と激しい批判が、等しい分量で降りかかってきていただろう、と傍目ながら想像してしまうのだ。
●全部見なければ、生きている意味がない
連さんは、決して音楽オタクではない。
「僕の中で音楽の重要度は低くて、上位3位にも入ってないんです」と話す彼だが、なぜかチャゲアスにだけは深く心を掴まれたという。
「僕は'84年生まれなので、チャゲアスファンの一番のボリューム層とはちょっとずれてるんですよね。ライブへの参加も、高校1年生だった'99年『電光石火』ツアーが最初なので、実はあの圧倒的に声が出ていた時期というのは、リアルタイムで経験していないんですよ」
ーーそうなんですか。私が観ていた'90年代半ばというのは、ライブを観に行けば、すごく勝手だけれど常に「正解」を感じられるような時期だったんですよね。ですが連さんのベースにある経験は全然違う。
そもそもいつ頃からチャゲアスの音楽に触れていたんですか?
「小学3年生の時に『YAH YAH YAH』が大ヒットして、父親が『RED HILL』を持っていたんです。すごくいいアルバムですよね。初めて自分の意思で、これが聴きたいと思った音楽だった」
ーーそこからハマってはいかなかったんですか。
「そもそも音楽自体に興味があまりなかったですし、当時はプロレスの方が優先順位的に高かったですからね」
ーーまたプロレスだ(笑)。どうしてチャゲアスファンの方にはプロレスのファンが多いんでしょうね? 何か理由があるんだろうなぁ。
「それで僕が中2の時に大事な瞬間がやってきまして。'90年代のヒット曲特集をテレビで見ていて、そこでチャゲアスの『ASIAN TOUR IN TAIPEI』が流れたんですよ。『めぐり逢い』『SAY YES』『YAH YAH YAH』の3曲でしたが、録画したビデオを擦り切れるくらい見ました。
そこからCDを揃えて猛烈な勢いで聴き始めて。それで中2のある日に『CONCERT MOVIE GUYS』にたどり着いたんです。もうね…『これを見ていなかった今までの14年間の人生は、全く無意味だった』って思いましたよ。本当に一字一句そう思ったのを今でも覚えています。”ASKA固め”になりながらね」
そこから連さんの旅は始まった。
高校生になっても、暇を見つけては近所のレンタルショップや中古店に足を運び、映像や音源を集める日々。
図書館の視聴覚コーナーの列に並んでは、小さなブースで'80年代前半のライブ『THE 夏祭り』『GOOD TIMES』などを観たのはいい思い出だという。
その生活は、生まれ育った場所から東京へと居を移し、大学に通うようになってからも続いた。
「文学部に進んだのですが、そこでは『どんな文物を愛するか』で人物が評価されます。だから小難しいものを愛するスノビズムがはびこっていたわけですけど、僕は露悪趣味でチャゲアスマニアであることを公言していました。他の奴らからすればだいぶ珍しかっただろうし、話題が膨らむことも多々ありましたよ。『黄昏を待たずに』いいよね、とか渋い返しをしてマウント取ろうとする先輩とかいましたね(笑)」
ーーそのマウント、嫌だな(笑)。
「文学部時代を通じて『チャゲアスよりも美しい文物』を必死に探し続けましたけど、ついに見つかりませんでしたね(笑)」
ーーそうか、その実感も、彼らの芸術性の高さに触れていた記事につながるんですね。大学時代も中古店巡りですか。
「自転車で主要な街はどこにでも行けましたからね。ネット通販は使わずに、すべて歩いて手に入れるんです」
ーーそれは結構過酷ですね!
「そうするといい出会いがあるんですよね。僕の中で特別に大事な2つの出会いがありまして。1つ目は、大阪へ旅行に行った時。僕は旅先でも必ず中古店を巡るんですが、全く期待しないで入ったブックオフに、なんと『LOVE SONG』の'89年版(当時の販売枚数よりも'92年の再販版の方が大きく上回るため貴重)があったんですよ。しかも300円。期待してなかったから、なおさら嬉しかったですよね。
あとは自転車で上野から秋葉原を巡っていた時。交差点で、呼ばれたような気がしたんですよ。見上げたら中古店の看板がある。引き寄せられるように中に入って入り口のカートを見たら、なんと『ONESIDE GAME』のVHS('86年、横浜スタジアムの野外ライブ)が置いてあるんですよ。しかも500円!あの出会いなら5000円でも即買いですが、あの時は運命を感じて本当に嬉しかった。大切にとってありますよ」
ーー連さんは、世の中が価値に気づいてないことから生じるバグに快感を覚えるタイプのような(笑)。前に「中古市場とプレス枚数の考察」みたいな記事をサイトの方に書いてらっしゃいましたよね。あれはさすが、実地調査を長年続けている連さんにしか書けないなと思ってました。
「ああ、あの記事は割と自分でも気に入ってるんです(笑)」
目を見て話してみると、まったく理路整然としていて合理的な人に思えるのだ。
だがあらゆるものの優劣をキャッチしふるい分けていく反面、自分にとって本当に大切なものとの出会いだけは特別に、あえて非合理な偶然の力に任せている…。
中古店でのエピソードを伺っても、連さんとはそんな方のような印象を受ける。
ーー連さんって、圧倒を求めてるのかなと思うんですよね。人って何かを好きになる時には自分の中の不足を埋める力が働くと思うのですが、連さんにとってはそれは偶然の力であり、圧倒なんじゃないかと。
「どうなんでしょうね…でもチャゲアスのライブ映像って、本当に圧倒されますよね。
彼らの本当の魅力に気付いてる人って、絶対に映像を観るという経験をしてるはずなんです。CDを買って音だけ聴くのではなくてね。
ASKAを繊細なアーティストと見る人もいますが、点光源の3本目に登場された田中さんもおっしゃってましたがフィジカルが尋常じゃない。マッチョな感じに加えて、派手派手しいケレン味。それはプロレスラーのオーラなんですね。音楽家のオーラじゃないです(笑)。だからチャゲアスファンにはプロレス好きが多いんです」
ーーなるほど…長年の謎が解けてきた気がします(笑)。
●ファンはアーティストを育てられるのか?
そんな連さんが、もうASKAについていくのはやめようと思った瞬間がある。'00年代も終わりに差し掛かっていた頃だった。
「'09年のソロツアー『WALK』の時ですね。'99年から毎回ツアーに参加し続けてたのですが、とにかくASKAは毎回調子が悪くて、行くたびに心が苦しくなっていました。それでも10年通って、もう無理だって心が切れたのがその時でしたね。
10年間続いたのは、その間にも奇跡的な体験をしているからです。一生の思い出は'03年『THE LIVE』ツアー。地元ホールの2日目で、奇跡の歌声が降りてたんです。あれは間違いなく、僕が夢見た全盛期の声でしたね。あらゆる楽器よりもどデカい声がホールの壁と観客の心を揺るがしてました。『この声を死ぬまで覚えていたい』って心の底から願いましたよ。本当に人生で最高の至高体験でした。2時間、マックスで興奮しっぱなしですからね」
ーーその一つを経験したことで、その後の熱が変わったんですね。そういうファンの方もたくさんいるんじゃないかと思います。それでも連さんの場合、'09年に糸が切れてしまった。
「もうライブにも足を運ばなくなりましたが、実はその後に一度、また衝撃の経験をしてるんです。
'11年の『FACES』ツアーは、偶然チケットが手に入って観た。その時に、アルバム『君の知らない君の歌』について、『このアルバムでは一つの部屋のことを歌っています』とASKAがMCで話し始めたんですね。それを聴いて、雷に打たれたような感覚になって。ずっといくつかの楽曲の中に感じていたものが、全てつながったような気がしたんです。
その時の気づきは、サイトを始めた時に『桜上水の恋人の考察』としていくつか記事にしたのですが、そんな風にしてたまに運命的なライブを観てしまうんですよね。これが離れられない理由かもしれない」
ーーASKAさんのラブソングの中には実在のミューズがいるという、細かな検証を並べて書かれた「桜上水の恋人」の一連の記事には本当に衝撃を受けました。私の書いたいくつかの記事は、間違いなく連さんの研究成果から影響を受け、そこをベースとして書いてます。ここで公にお礼をお伝えしなきゃ(笑)。
「あれは、実は書かなきゃよかったな、とは思ってるんです。他人が書いた歌詞の解釈って読んじゃうとこびりついて離れないんですよね。僕も10代の頃に読んだ、どなたかの『HEART』の解釈を今でも覚えてて、聴くとそれが出てきます。僕が書いていたものはかなり濃度の高い毒薬でしたね(笑)。まさか当時は、ASKAが復活するとは思ってなかったから好き勝手に書いてしまったけれど」
ーーえっ、復活はないと思ってたんですか? 実際は'16年に活動を再開されますが…。
「そう、僕がサイトをあのように作ったのも、引退すると思っていたからですよ。なので復活と知った時には、本当に勝手なのですが、まずいな、と(笑)。
あのマイナスな状況から復活されて活動を始めるとなると、なるべくなら耳に痛いことを書かずに応援したい。けれど、僕はきっと痛いことも書いてしまう。かなりのジレンマでしたね。復活されてからはサイトの引き際をずっと考えてました。
ですが、復活後のアルバムが幸いなことにどれも本当に良かったんです。ああ良かった、嫌なことを書かずに済むと心底ホッとしましたね」
ーーアルバムのレビューはかなり熱を入れて書いてらっしゃいましたよね。
「そうなんです。あそこまでの作品を生むというのは、本当にすごいことです。
ですが昨年末、ASKAの活動を諌める内容の記事を書いた際に、もうこれは匿名で書いていいレベルのものではないなと判断し、サイトごと消しました。僕の悪い癖で、黙ってやり過ごすことは、どうしてもできなかった。誰かが言わないと宝物がすべて壊されてしまうような気がして怖くて」
ーー確かに踏み込んでいる記事ではありました。ファンの方に向けて書いたとしても、ご本人が見る可能性もあるので対象者を区切れないのが辛いところですよね。
「そう、SNSもしっかり見てらっしゃいますしね。僕が考えているのはいつもASKAにとって良い結果になるように、だけです。今もこれからも、ずっとそれは祈り続けます」
古典芸能では、ファンが演者を育てるという文化がその質を下支えしている。
落語家の立川談志は生前、「ちょっと面白い程度でそんなに笑われると不快だ」と観客に高座から釘を刺していた。私はそれを聴いた時、頭の中が掻き回されるような衝撃を受けた。
音楽でも、そういう関係が成立するか? 連さんの葛藤と工夫は、どこかそこに通じているような気がする。
●精神医療という天職と、ファン道はつながっている
連さんの持つ信念。
それは、はっきりと明快に、その場で気持ちを言葉にするということだ。
精神医療に携わりながら人の心の柔らかいところに触れ続け、その態度が必要だと確信したという。
「僕は精神科病院に併設されたデイケア施設で、センター長として働いてます。デイケアというのは治療する場所というより居場所であることの意味も大きいので、日々いろんな方々と触れ合う中で、どんな接し方が長期的に見て良いのか、経過を見続けることができるんですね」
連さんは日々の仕事から体得したものを、書籍にしてKindleに並べている(阿弥龍一というペンネームで活動中)。
今の時点で、すでに23冊。1年前から知見をまとめ始めたというのだから、ものすごい執筆スピードだ。
「いわゆる精神障害をお持ちの方にどう対応したらいいかは千差万別ですけれども、全ての局面で僕が大事にしているのは、こちらが『自然体であること』。集団生活上、改善しなきゃいけない事態が起きることも多々ありますけど、そんなときに気遣いやご機嫌取り、我慢などは、その時に衝突が起きなかったとしても、後で確実に響きます」
ーーそうですか…。障害の有無に関わらずとも、私は日常の親子や夫婦といった近しい関係に全く同じことを思っているのですごく共感します。
というのも、私は結構我慢してしまうタイプで…。言い過ぎるかも、と気を遣って言わなかったことや、相手を信頼してるから、という多少の言い訳混じりの気持ちで事態を放っておくと、後で揉めごとは大きくなる。『なんであの時言ってくれなかったの!』と何度怒られたことか(笑)。
「そうなんですよ。施設でも利用者さんに言われた名ゼリフで「叱るならワンアウトで叱ってください」というのがありました。スリーアウトまで待ってることは、優しさじゃないんです。例えそのとき衝突しても、スリーアウトまで引っ張るよりは相手にとって随分マシなんですよね」
ーーそこまで引っ張ると、関係性として我慢した方に上位意識が生じてしまいますよね。だからややこしくなるのかも。
「人はそういうところに神経を使うことが、互いにものすごい消耗につながるんです。とにかく自然体で、例えが変かもしれませんが大阪のおばちゃんみたいに接するのがいい。ダメなことしてたら『ダメだよ』と即座に言えないと。これが理想なんですよね」
ーーわかってはいるけれど、実践が難しい…。
「そう、難しいんですよ。僕も未だに、専門職であっても間違えます。でも意識してそうすることが大事で、そうすると自分の中で『どこまでが良くてどこからがアウトか』という判断軸ができてくるんです。これがあると即座に動けるようになるんですよね。
それを元に、『私は〇〇と感じている』と自分を主語においてはっきり伝えること。これが大事ですね」
連さんは、仕事をしている自分、家庭人である自分、そしてファンである自分との間に、全く線を引いていないように感じられる。
誰とどんなことをしている時でも、態度に変わりがない人なのであろう。
おそらく精神医療は彼の天職なのだと思う。
ーーファン活動において、特にそういう態度は難しいですね。
私、ファンというのは気をつけてないと依存に近くなるというか、どこか自分の中の不足を埋めている場合も多いんじゃないかと思うんです。日常で疲れ果てて、束の間音楽に癒しを求めるとか、こうでありたい自分を投影するとか…。
私も放っておくとそうなるんだけれど、でもそれって、アーティストにとっては酷な態度ではないかと思うことがあるんです。理想の存在にしておきたいという気持ちは、実はアンフェアだなぁと。
「普通はそんなことまで考えなくて、気楽にファンであっていいと思うんですよ。そういう産業構造ですから。ところが、やっぱりASKAというのは特別なアーティストですよね。応援の形を考え直してもいいと思うんですよ」
ーー確かに。ASKAさんの存在って、良い意味でアーティストとしてこなれてない、予定調和でない感じがします。「ファンごっこ」「アーティストごっこ」を許してくれない、だからこそ、ファンって何なんだろうと常に考えさせられる。休ませてくれない存在なんです。
このnoteを始めて2年以上経ちますが、ずっとそのことを突きつけられてますよ(笑)。
「それがASKAのカリスマですよね。逃してくれない(笑)」
ーーそう、カリスマ性が異常に高い(笑)。音楽や行動が枠にはまらず、また人としての魅力がすごくある方なので、本当にハマった人はASKAそのものが好きという愛し方に収斂していくんですよね。それでも変化し続ける人なので、自分の理解の範囲を超え出してもついて行くしかなくなっちゃう。
そういう状態であると思っておかないと、応援してるつもりで逆のことをしてるんじゃないかとヒヤッとする時がありますね。
「冷静さが必要じゃないですか。相手に対して罵詈雑言を浴びせることはいけないけれど、ただの追随や礼賛というのはもっと、長い目で見てひどい結果になると、僕は経験上感じています。今の態度は本当の意味で応援なのか? と、常に自分に問い続けることが大事」
ーーすごい話ですよね…。まるで「ファン道」と言うものが存在しているように感じます。
「ファン道ですか(笑)。まあ、そうかもしれませんね。もうずっと昔、僕なら中学生の時から、ASKAから感動とか勇気とか、貰える物は全て貰ってるんですよ。だからこれからは、こちらから返す時間だと僕は思ってる。
人から何かを貰おうとすることは地獄のはじまりで、反対に何かを与えようとした瞬間に天国がはじまると、つくづく感じます。今はそれができる便利な時代ですね。そして、何を与えればいいのかはよくよく考えた方がいい。それがファンになったからこそできる応援ではないかと僕は思うんですが。
ちょっと話し過ぎましたかね? また誹謗中傷になっちゃったら嫌だな(笑)」
ーーいえ、このnoteまでなくなったら嫌なので、厳しめにチェックするから大丈夫です(笑)。
*
連さんとの話は、いつまでも尽きない。
そして彼と話していると、やはりこの曲を聴きたくなる。
すべてはお前と この愛のために
溺れてみるなら この愛の中で
Nobody but you
いつか 胸を満たしてた夢まで戻れそうだ
夜明けに俺を 紅く俺を染めるのは
お前しかいない
自身を溺れさせてくれた存在に、時にきわどく、そしていつでも本気で愛を届ける人。
ファンの側からもkicks(刺激)を送り続ける、それが連さん流のスタイルなのだろう。
・・・・・・・・・・
ASKAの音楽を愛する人たちへのインタビュー連載《点光源》。
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