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棘
ばらの花って何で棘があるんだろうな。俺は園芸のことなんてよくわからない。まあ、自分の身を守るためとかそういうことなんだろう。綺麗なものには棘があるんだ。無下に奪われ散らさせないためにも。
ばらの花は俺の別れた妻が庭で育てていた。東京都郊外のわりと大きめの一軒家。ここはもともと俺の叔父夫婦の家だった。子どものいない彼らは神奈川県の海沿いのマンションに移り住み、格安で俺が譲り受けた。俺には小学生の娘がいる。でもいまは一緒にはいない。親権は妻にいった。妻の浮気で俺達の結婚生活は破綻したのにおかしな話だ。俺達の住んでいた家も競売にかけた。
俺はいま中野坂上のアパートに一人で暮らしている。独身時代もいた場所だ。会社までは地下鉄で30分程度。郊外のときは2時間近くかかっていた。思えば毎晩疲れくたびれ果て妻にあたっていた。あいつはあいつで乳児相手にてんてこ舞いの日々だったのに。部屋が片付いてないだの飯が手抜きだの。何だか些細なことでしょっちゅう喧嘩になっていた。しかしあるときから喧嘩さえもしなくなった。妻はやけに綺麗になってめかしこんで機嫌はいいし。まさか近所の花屋の店員の男と懇ろになっていたなんてね。妻は言った。
「あなたには棘がある。私だって毎日疲れてるのにあなたが帰ってくれば小言ばかり。褒めたりねぎらいの言葉もないし抱いてもくれない。いつも胸に棘が刺さってるようで辛かった。寂しかったの」
俺はこの言葉のあと何て言ったんだろう。逆上していて正直よく覚えていない。淫乱だとか雌豚だとか罵倒の言葉を浴びせた気もする。棘か。俺はまたここで新たな棘をあいつに刺してしまったんだ。いまはもう養育費や子どものことなどで事務的にLINEのやり取りをするだけだ。浮気相手とはどうなったんだろう。でもそんなこともどうでもいい。もう7年近くも前の話なんだから。
俺はいつも棘のある言葉で人を傷つけてる気がする。そこまでして守りたかったものって何なんだろう。俺は何を恐れて何を求めていたんだろう。自分自身はいつも近すぎてよくわからない。人の粗はよく見えるのに。
考え事をしながら休日の小雨のなかを歩いていたら花屋が目についた。花なんて買ったことないな。女にもそんなもの贈らない。店内には俺の好きな曲がかかっていた。ナット・キング・コールのスターダストだ。何となく吸い込まれるように店にはいる。ちいさいが洒落た店だ。ところ狭しと色とりどりの花が並んでいる。ばらの花もおおい。赤や黄色やピンクや白。しかしいろんな品種があるね。イングリッド・バーグマンなんて女優の名前だ。カサブランカとか別れた妻とDVDで観たっけ。まだ結婚前の話だ。ああ、カサブランカという品種のゆりも売っている。ゆり、俺達の娘の名前。
店内の曲はスターダストから枯葉に変わった。星屑が煌めいてた恋愛から枯葉舞い散る結婚生活へ、だなんて。
俺はちょっと笑っていたかもしれない。我ながらつまらないことを考えるな、って。店員の女の子が微笑んできた。
「プレゼントですか? アレンジしますよ」
「あ、プレゼントってわけでもないけど……。まあいいや、適当に何か花束つくってください。5000円くらいでいいかな」
「わかりました」
5000円ね。花にだなんてちょっと奮発しすぎたかもしれない。どうせ枯れてしまうし俺に世話なんて出来ないだろう。デリかキャバ嬢にでもあげたらうけるかな。
店員のコは器用に花束をつくっている。リボンをうまく巻いたりして。艶やかなセミロングの黒髪に細い銀縁の眼鏡。細身の体に白いタートルネックのニット。涼やかな目元が可愛い。一見地味だけど顔が整っている。
「できました。こんな感じでいいですか?」
「あ、すごいね。華やかだ。ばらもこんなにある」
「5000円だと結構いろいろいれられますね」
レジで金を払う。この花束はどうしようかな。俺は言った。
「あ、これよかったら君が貰ってくれないかな。本当にあてもなく買っちゃったんだ。ごめんね」
「え、いいんですか?」
「うん。今度また買いに来ますよ。花を贈る相手がみつかるといいけど」
女の子が笑った。俺も笑った。店内にはナット・キング・コールのL-O-V-E。今度恋愛するときは棘は抜いておこう。お互い怪我してしまうから。