「金木犀の終焉 / 終演、ダブった終末 / 週末」2022年10月17日
金木犀の香りがした、が、気のせいだと思った。
が!今日、花が咲いているのを発見した。
しっかり香っている。
けれども二週間ほど前の全盛期のような力強さは無かった。
金木犀の最後の煌めき。
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(敬称略)
過去の記事でも取り上げた、現在自分の中でアツいアーティスト、田村友一郎の作品2作が取り上げられているカタログ「Week End / End Game」が学校に置いてあったので読んでみた。
メチャクチャオモロかった。
カタログだけど文章が多く、内容も高密度である。
取り上げられている作品は、
インディペンデントキュレーターの服部浩之をゲストに迎え、小山市車屋美術館で開催された個展に出展した《試論:栄光と終末、もしくはその週末 / Week End》と、今はもう無きBankART Studio NYKで行われた日産アートアワード2017のファイナリスト展に出展した《栄光と終焉、もしくはその終演 / End Game》。
双方ともに、2017年の企画だ。
めちゃ長くなるので、各々の作品の内容は省く。
思い出してみると、後者のBankARTの方は観に行った、高校の遠足で。
当時はヨコトリ2017で展示していた Mr.(ミスター)と、宇治野宗輝にハマっていた為、そっちにばっかり目が行っていた。
その作品については本当に何も覚えていない。図版を見て「ああ、こんなのあった気がするな」という感じで思い出した。
倉庫を改装しためちゃくちゃ良い場所だったことを思い出す。
それでも、最初で最後のBankARTだった。上の写真の作品は日産アートアワード展のではない。
※追記:思い出した!この展示だ!
本書は、縦書きと横書きの二つで作品を区別していた。つまり、右綴じ左綴じの双方が表紙になっている。
また「脚本」と「メールでのやり取り」という普通はカタログに掲載しないテキストが取り上げられていた。オモロい!
《試論:栄光と終末、もしくはその週末 / Week End》についての内容では、SF・文芸評論家の藤田直哉と服部浩之の、本作を巡る対話が掲載されていた。
「小山市車屋美術館」は栃木県小山市に位置し、本作はその場所へのフィールドワークや地域住民との交流を通して制作された。
対話の中で、そのような「地域アート」ついての言及が行われる中、本作が取り上げた栃木県小山市のような地方郊外について、藤田はそこに「殺風景の美学」なるものがあるとして、田村の作品について以下のように述べた。
上記の引用が、対話の中で一番印象に残っている。
この言及は現在の自分の興味関心に大きく繋がる気がした。
しかし、「そのまま肯定するために必要な精神の態度」とは何なのだろうか。田村の作品を見ていると、そのニュアンスは伝わるような感じもするが、上手く言語化することが出来ない。
また今度、考えてみよう。
《栄光と終焉、もしくはその終演 / End Game》についての内容では、
前期に履修した担当授業を蹴ってしまった(怠慢で)芸術論者の平倉圭と、田村友一郎の対話が掲載されていた。
まず、対話を行うまでのメールのやり取りが掲載されていたのが印象的だった。18日越しに返信していたのが面白かった。
対話において私は田村の作品についての言及よりも、平倉が述べた以下のような内容が印象的だった。
崩壊のイメージは田村の作品において具体的に用いられていた、
後に平倉は崩壊について、物の身振りが人の身体に移ってしまうような感覚がすると述べ、そこに所に作品を見る面白さがあると言及していた。
その内容の前後関係をよく読んでみたが、何だろう……よくわからない。
それでも確かに、私は「崩壊」という言葉に対して興味関心がある。
2018年に森美術館で開催された「カタストロフと美術のちから展」は私に大きな影響を与えた。本展は「カタストロフ」=「大きな破滅」をテーマとした展覧会であり、内容がめちゃくちゃ多く、二回観に行った記憶がある。
確か一時期、作品構想のノートに大きく「崩壊」と書いた記憶がある。
それでも、未だに崩壊をテーマとした作品を制作出来ていない。
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今日(昨日)の午前3時半、そういえば昨日(一昨日)も同じような時間に帰宅したことを思い出した。振り返れば土曜日と日曜日、両日共にいくつか全く同じことをしていたことを思い出す。
ダブった週末。両日、めちゃくちゃ疲れた。
今日は四限以降、終日予定ナシだった。久しぶりに日付が越える前に帰宅し、一時間ほどウダウダしていたが今日はしょうがない。
午前一時か……三時ごろまで作業して寝よう。
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また明日。