王珮瑜 台上見 試訳8
07天津でのコンクール参加
1994年3月、中国少年京劇芸術団は香港から戻ってきて二か月後、「新苗杯」全国少年京劇コンクールに迎えられ、私は上海演劇学校の代表メンバーとして参加しました。
大会会場は天津の中国大劇院で、そこは中国京劇の輝かしい歴史の聖地です。古くから「芸を学ぶには北京、天津で実力がはかられ、稼ぐなら上海」と言われているように、芸事が巧く行くかどうかは港湾都市天津がひとつの目安で、中国大劇院はその天津の中心です。
あの頃の私たちは生まれたばかりの仔牛が虎を恐れないように、梨園の奥深さを知らず、挫折を恐れませんでした。先生に教えられたように演じ、しっかり食べて充分に睡眠をとり、散髪し、サッパリとして準備万端のつもりでいました。同年のコンクールには子役スターが少なからず参加していて、すなわち、王玺龙、金喜全、徐孟珂、刘魁魁、翟墨…と、現在京劇界を支える柱となっている人たちです。玺龙の「拿高登」、喜全の「雅観楼」、孟珂の「活捉三郎」、今でも忘れがたい舞台でした。
私の参加作品は「捜孤救孤」で、15分程度のダイジェスト版、香港で蔡先生に「(孟小冬)先生が帰ってきた」と言われたあの芝居でした。
この孟小冬先生の伝説の名曲「捜孤救孤」はまさに私にとって護符で、その後の2001年テレビ番組でのコンクールにもこの作品を選びました。
「捜孤救孤」でコンクールに参加する度に、審査員も観衆もみな一瞬にして催眠術にでもかかったようになり、少しの抵抗もなく好評を得ます。ただ言えるのは皆さんが大変に余派を熱愛していて、余先生や孟先生を心から懐かしんでいて、私は大変に幸運だったのです。
コンクールには私とともに二人の同級生、陳宇と戎兆琪がいました。陳宇は屠岸賈を、戎兆琪が公孫杵臼を演じ、舞台はすべてに行き届いており、脇役だからといって手抜きをするなど全くなく、パフォーマンスは完全に調整され、情緒のコントロールも巧く行きました。
終了後、私はずっと貯めていたお小遣いを出して、二人を美味しいレストランに招待しました。
コンクールが終わり、私たちが順番にバスに乗って劇場を出ると、熱狂的な天津の京劇ファンがバスを取り囲み、こう叫ぶのです。
「王珮瑜! 孟小冬にとらわれないで!」
これはスターのような礼遇をうけた、初めての出来事で、あまりにも早く訪れてきた幸福に、感激を隠せませんでした。
公演に夢中になっていたのとは別に、コンクールに参加していた一人の武生学生をひそかに慕っていましたが、自分のその奇抜で恥ずかしい思いに強いショックを受け、なんとも言い難かったです。
それから数ヶ月、文通をしましたが気持ちを伝える勇気がなくて、ただ「大切に」「頑張って」と繰り返すばかり。それでも、あの若き日々、お互いにたくさんの温かさと元気を与えることが出来ました。結局はとても若すぎて、花開くこともなく何もなりませんでした。