よだかの星は空に流れる【エッセイ】
そしてわたしは、空に溺れる。
とにもかくにも、こうしなければならない、こうでなければならない、と断定する言い方をされてしまうと、あまのじゃくなわたしはつい反抗してしまいたくなる。
だからわたしは、冗談以外で絶対にこう、という言い方は避けてしまうが、唯一、これは絶対にこうだよね、と同意、共感を求めてしまうものがあるとするならば、それは宮沢賢治の短編小説、「よだかの星」についてである。
『よだかは、実にみにくい鳥です』から始まる、本当に短い物語なのに、こんなにも美しく、涙が出るハッピーエンドがあるだろうかと読むたびに思ってしまう。
そして何より、よだかの星のよだかの姿は、これはまさに自分のことだ、と自分を重ねて読んでしまう。
思い返してみると、大好きな映画でもこれは自分のことだ、と思うことはないし、漫画でも絵本でも、自分と重なるから好き、とはならないのに、小説に関しては、好きな作品は自分と重なる部分が多い。好き勝手、自分の都合のいいように想像しているだけかもしれないのに不思議だ。
自分に都合のいい世界だっていいじゃないか。
それでも人は正解や答えを求めるだろうから。
映画も本も音楽も、生き方も、自分に都合のいいように解釈をして、間違っていたらそういう考え方もあるんだって、受け入れたらいいだけだ。
言葉の意味も人があとから考えたものなら、自分の解釈で捉えたって間違えじゃないだろう。
目の前の現実さえも、夢じゃないって証明できないなら。
君はきっと、ぼくを殺すだろう。
わたしはただ、カシオペアと天の川の間で燃える、よだかの星を眺めている。
夜野
きみのために風は吹いている そう思えるのはきみのかけがえのない生活が、日々が、 言葉となって浮かんでくるからだと思う きみが今生きていること、それを不器用でも表現していることが わたしの言葉になる 大丈夫、きみはきみのままで素敵だよ 読んでいただきありがとうございます。 夜野